2010年7月4日日曜日

「柔術、どれぐらいやってるんですか?」3

今回は、「柔道部編」です。

某都立高校入学と同時に柔道部に入るわけですが……。
入学時の自分は非常に線が細かったんです。50kgもギリ無いぐらい。
現在の私を知る人は想像できないでしょう……(笑)。
それで柔道部はさすがに厳しいので、今まで茶碗1杯だったご飯を3杯にすることにしました。
これは1カ月ぐらいで挫折しましたが、体重は10kg増量しましたね。
その後はご飯を2杯に減らしましたが、体重はそのまま60kgぐらいを3年間維持しました。

しかし、正直言って、私は柔道がすごく弱かった。
試合に出ても、全っ然勝てない。
高校1年春に入部して、だいたい1年の冬には昇段試験を受けるわけですが、それは高校から柔道を始めた者も一生懸命やっていれば、だいたい黒帯を取れちゃうものです。
8割ぐらい合格する感じだったかな?
しかし私は自信が無くて、当日、風邪か何かの言い訳でドタキャンというヘタレぶり。
いやあ、こんな情けない記憶を何十年かぶりに引き出しました……(笑)。
黒帯は2年になってすぐ取れたかな。

もともと柔道部の顧問の先生(在学中に2回変わっていますが)からして、みんな本職は「合気道」の先生でした。
なので、技術は基本的には自分で、柔道の技術書から学ぼうとしました。
醍醐先生の本とかその他数冊……。

そういえば、今の柔道の本ってすごく親切で、写真もカラーで見やすいし、時にはDVDまで付いていたりして、本当に分かりやすいですよね。
昔の本はモノクロばかりでちょっと見にくい上、実戦ではほとんど使われない「形」の技も網羅されていて、そういうのまで真剣に読んでました(笑)。
誰も何も言ってくれないから(先輩たちも同じような状況なので)、自分の体型には合わない技まで真面目に練習して、でも全然乱取で掛からなかったり……。

あと、いろいろな部活と一緒に体育館を使っていたので、毎日練習できたわけではなく、しかも練習の前後に畳を敷いたり戻したりしなくてはならなかったので、1日2時間ぐらいだったかなあ……。
自分が高校3年で引退してすぐに武道場ができて「この野郎」とは思ったのですが、武道場のこけら落としのときに先生の演武の受けを務めたことは覚えています。

でもまあ、都立高校の弱小柔道部というのは、現在でもそんな感じなんですかね?

当時の地区の試合は、団体戦がほとんどで、個人戦もたまにはありましたが、いずれもすべて「体重無差別」の試合でした。
そして、私個人は、しばらく「全敗」でした……。

ただ、私たち1年生の代は、割と強かったのです(自分以外は)。
経験者もいたし、未経験でも巨漢が何人かいて、高校1年の冬には団体戦で先輩チームが早々負けたのに、我が1年生チームが都大会に進出してしまったことがあります。
これは弱小柔道部にしては、「奇跡」のような快挙だったのです!
ベスト4だかベスト8まで残れば都大会に出られるのですが、あと1試合勝てばその出場権が手に入るという地区大会の一戦で、この弱い私が「奇跡の引き分け」を果たして、無事都大会に出れる一助となったのが、この時期の唯一の誇らしい思い出です(笑)。
まあ、都大会ではレベルの差を思い切り見せつけられて、1回戦で普通に0-5で敗れましたけどね(そして、それが最初で最後の都大会でした)。

ということで、弱い自分は、高校2年の春からサンボを始めます。
「サンボ編」は次回書くので、ここでは簡単に触れるだけにしますが、他の人がやっていないような変わった技術を取り入れて、柔道が強くなりたかったわけです。
それで、柔道部の練習後、新大久保のスポーツ会館まで通い、サンボを練習しました。

結局、私の柔道初勝利は、高校2年の冬までかかります。
サンボを始めて1年近く経って、ようやく結果が出せたことになります。
寝技で相手が上から被さって来たところを、瞬間的に首を抜いて腕を抱えて脇固めで一本勝ち。
サンボというより、当時ハマっていたUWFの藤原善明のイメージだった気もします(笑)。
そう、高校生のときは初期UWFの後楽園ホールによく通いました。

その初勝利をきっかけに、急に試合で勝てるようになりましたし、他校との練習でも分がよくなりました。
とはいっても、高校3年の夏には引退するので、もう遅いわけですが(笑)。
その後、試合は2回ぐらいあったのかな。
個人戦の無差別で、自分よりデカイ相手に2、3回勝った後、百何十kgのデブとやって互いにポイントは無く判定で敗れたのが、最後の試合だった気がします。

当時のマイヒーローは、同世代の世田谷学園の秀島大介でした。
後に幕張の世界選手権でチャンピオンにもなりますね。
吉田秀彦の同世代でもありますが、私としては吉田よりも、小さな体で百キロ以上ある相手を引きずりまわして投げる秀島のほうに、目が釘付けになっていました。
なので、最初の吉田×ホイス戦のとき、秀島の職場に行って試合の予想を聞いたのですが、高校時代の憧れの人を前にして感慨深かったことを覚えています。
そのときは、同時掲載の古賀稔彦インタビューのほうが反響を呼びましたが。
とにかく、私の柔道における憧れと、イメージするスタイルは、秀島大介だったのです。

初勝利後からは調子づいて、地区の柔道部数校が集まっての合同練習で、どこかの顧問先生を立て続けに投げたこともありました。
組み際に一本背負い、また組み際に小内巻き込み……。なんて「KY」なことをしたのか(笑)。

当時は一本背負いと小内巻き込み、袖釣り込みをよく使っていたと思います。
サンボではタックルを両足、片足とも相当練習していて得意でしたが、でも柔道の試合では使いませんでしたね。
肩車や裏投げみたいな技もサンボで練習はしましたが、自分自身が得意にしていたというわけではなかったし。
確かに寝技は強くなりましたけど、引き込み十字とかも、柔道だと引き込みの注意を受けやすいので、ほとんど使っていないし。
いま思えば、直接的にサンボの技はそれほど高校柔道部時代には使っていなかったと思います。

ただ、それでも柔道の試合で勝ち始めるようにはなったのは、単純に高校の練習と掛け持ちで練習量が増えたこと、スポーツ会館の施設でウェイトや走り込みも増えたことも大きかったのかなと。
スタイル的には組み際の技、組んだ瞬間に先に掛ける技が多かったけれども、崩れて寝技になってもサンボのおかげで自信を持つことが出来たという部分はあったと思います。
あとは、いわゆる柔道スタイルの相手にどうやって勝つのかという発想が、スポーツ会館の人間にはみんなあったので(全日本で当たる柔道家対策として)、そういう部分で頭を使うようになったとは思います。

あと、高校2年から3年に変わるときに、板橋から埼玉に引っ越ししたんですが(高校はそのまま同じ)、これを機に近所の柔道の町道場にも通い始めました。
理由は、柔道部にいながら、柔道の基本があまり無かったから。しかも、それを補うためにやっているのがサンボだし(笑)。
でも、あんまり長く続きませんでしたね。

私は基本的に、勝負事は「KY」なのです(さっきの合同練習の話しかり)。
あるとき、そこの町道場の先生との乱取で、私は一本背負いで投げました。
完全に投げたのに、「そんなんじゃ有効も取れんぞ」とか言われてカチンと来て、また一本背負いで投げたり……。
寝技でも、サンボ仕込みの十字を取ってしまった気が……。
もともと「変形柔道」なので先生によく思われていなかった上、そういう出来事もあって行きにくくなり、なおかつ道場の中学生も生意気で(笑)、数カ月で足が遠のきましたね。

結局、華々しい成績は何もなかったですが、高校3年の夏には部活を引退しました。

まあ、今から見ると、高校の部活の他にサンボを続けて、あと一時期だったけど柔道の町道場やスーパータイガージムにも通ったりして、とにかくなんか溢れる熱意だけは感じられる高校生でしたね(笑)。

ちなみに、『ゴング格闘技』で巻末に柔道のコラムを書いている磯部さんは調査力が素晴らしく、恐らく日本一の柔道マニアだと思うのですが、最初に執筆依頼の席で「確か○○高校ですよね?」と私に言いました。
いや、この方は恐ろしいですよ(笑)。

しばらく経って、務め人になってから高専柔道を始めるのですが、いわゆる普通の柔道をちゃんとやったのは、この高校3年間です。
柔道の基本も身に付いていないし、線も細い、弱小柔道部の一員にすぎなかった自分が、サンボの道場に通い、高2の終わり頃から柔道でも勝ち始めた。
そんな感じの3年間でしたね。

続く。

3 件のコメント:

  1. 寝業研究家2010年7月19日 13:26

    秀島大介は昭和45年生まれの世代で、吉田秀彦の1学年下になります。藁谷さんの1学年下ですね。

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  2. ああ、そうでした。多分、他にも昔のこと勘違いして書いているところあると思います。ご指摘ありがとうございます。

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  3. ということで微妙に修正しました。

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