2010年11月14日日曜日

「柔術、どれぐらいやってるんですか?」9

「オイッ」と後輩の肩を叩いたところ、
振り返ったその顔は、F村ではなかった。
肩を叩いたのは、こともあろうに1年前、準決勝で戦った元木選手だった。
同じ坊主頭だったから、間違えてしまったのだ(笑)。

試合中に「逃げるな!」とほざかれ(失礼…当時の心境を再現すると)、目を指で突かれ(故意ではないが)、ほとんど形に入った膝固めを反則によって逃げられてしまった(これも恐らく故意ではないだろうが)、あの因縁の相手である。
向こうだって、ワタシを「あの野郎!」ぐらいは思っているだろう。

まさかの展開に、一瞬頭が空白になったW少年は、どうしたか。
なんと、間違ったことを悟られないように振る舞うことを選択した。
「あ、元気?」ぐらいは言ったかもしれない(笑)。

元木選手からは同じ62kg級エントリーじゃなかったことを問いただされて、「いや、もともと57kg級で、去年は減量できなくて62kgにしたんだ」とか答えた記憶がある。

二言、三言を交わして、微妙な感じのままW少年はその場を離れた(笑)。

元木選手はこのときの全日本では準優勝になったが、翌年はワタシの先輩の故・杉本さんの金メダルを常に阻んできた、東海大柔道部出身の小林左右長さんにも勝って、2度ほどシニアでチャンピオンになっている。

その後、元木選手は本職のグレコに専念して、こちらでも実績を出していった。
遅咲きの努力型タイプで、シドニー五輪では日本代表にまで上り詰め、その後もナショナルチームのコーチを務めるなど、指導者としても高い評価を得ている。

後日談だが、元木選手とワタシの共通の友人である山形出身の某接骨医から聞いたところでは、「自分のほうが負けているのに、“逃げるな”って言うのはやっぱり恥ずかしかった」と言ってたらしい。

ちなみに、ワタシが記者になってから言われたことだが、あるスポ館の先輩から「君の最大にして唯一の功績は、元木に勝ったことだよ」と評価されたことがある。
元木選手にしろ、足立選手にしろ、競技者としてワタシよりも遙かに高みにいった人間と、若い頃の一時にせよ凌ぎを削れたのは、大事な思い出でありちょっとした誇りでもある。

閑話休題。
試合前に後輩と因縁の相手を見間違えるという、そんなしょうもない“事件”はあったが、しかし試合のほうもひどかった。
もう相手の名前も所属も覚えていないが、自分の中では「勝てる相手」として臨んだ試合だった。
しかし、グダグダの試合になった。
ポイントが取れないのだ。
当時よく使っていた背負い→小外のフェイントで1ポイント取ったぐらい。
結果は、初戦敗退だった。

ズバリ、練習不足というしかない。
大学生になって合コンだ水商売だと浮かれていた自分に、相応しい結果が出た。
初戦でワタシに勝った相手も2回戦で負けていたし、さほど強い相手でもなかったのだろう。
1年前と違って、涙も出ない。
涙は、試合に向けて全力を出した者だけに相応しい。
試合のときに全力を出したかどうかではなく、試合前の練習で悔いなきようにどれだけ自分を追い込んで全力を出したかである。

この大学1年秋の全日本を境に、ワタシはスポ館の練習から足が遠のいた。
そして、再び夜の世界に戻っていった。

続く。

2010年10月11日月曜日

「柔術、どれぐらいやってるんですか?」8

ワタシの大学生活で待ち受けていたものは……、
“怠惰”だったかもしれません(笑)。

入学と同時に法政大学の寮に入ると、
地方から集まって来た新入生たちとどんちゃん騒ぎの日々。
毎日が修学旅行のように楽しく、
週末は常に合コンの予定で埋まっていました。

ご覧のように、これまでただのプロレスオタク、格闘技オタクだった自分も
「大学デビュー」で急にはじけてしまったわけですわ。

それで、夏からは水商売も始めて、
大学時代はいろいろな水商売を渡り歩くことになるわけですが、
ここは省略。

その中で、ワタシは格闘技的にはどのように過ごしていたのか。

前回書いたように、浪人生のときの全日本決勝で敗れた自分は、
「大学に入ってレスリング部と柔道部に入る!」
なんて一人雪辱に燃えていたわけですが、
結局、とりあえず入ったのは「柔道同好会」。

他にも幾つかサークルに入っていた自分にとっては、
「同好会」ぐらいがちょうど良かったのでしょう。
しかし、それも大学1年の春合宿に行った後、
夏合宿を迎える前に足が遠のきました……。

(ちなみに、大学で最後まで続けたサークルは、
T女子大と合同の「ラケットボール」のサークル。
格闘技ファン的には、エンセン、イーゲン兄弟がやっていたことで
名前は聞いたことがある人もいるかもしれません。
ワタシは、修斗デビューの遙か前から井上兄弟のことは
ラケットボールのほうで知ってました)

サンボの練習のほうは、やはり頻度は少なくなっていましたが、
大学入学後も一応は通っていたと思います。

※以下、加筆修正しました。

1989年9月、ワタシが大学1年のときに、当時のソ連サンボ代表が来日しました。
サンボの日本代表vsソ連代表というイベントが
代々木第二で行なわれたのです。

そういえば当時はベースボールマガジンもサンボに力を入れていて、
「格闘技通信」にサンボをよく取りあげていました。
同年3月には同じ代々木第二でベーマガ主催「サンボフォーラム」も開かれていて、
前田日明さんもソ連のサンビストと交流したりしていて。
もちろん、ワタシも会場に駆けつけています。
十字を取る体勢に入りながらアキレスを取る技とか、
前田さんがすごく感心していたのは覚えてます。
当時は第二次UWFの時代ですね。
(ワタシは第一次UWFのときは後楽園に通い詰めたクチですが)

話をもどすと、9月の代々木第二での日本代表vsソ連代表の前日ぐらいに、スポーツ会館でも、
スポ館代表vsソ連代表が行なわれました。
ワタシもスポ館代表として出場しています。

それというのも、全日本出場枠を巡る57kg級の
スポ館内予選で勝っていたから。
このときは“マイケル”I君も含めて三つ巴戦をやりましたね。

しかし、今でも予選で覚えているのは、試合内容ではなく減量のきつさ。
その頃は減量のやり方をちゃんと知識として持っていなかったので、
その三つ巴戦のときは本当にきつかった。
サウナで水を抜いて体重を落として、計量後にすぐカツ丼を食べに行ったりして
(もちろん胃が受け付けない)、その1、2時間後に試合したときは、
足がフラフラで地に着かない感じのまま戦いました……。
減量でサウナというのは最悪だと、身をもって知りましたね。

そして迎えたスポ館代表vsソ連代表の対抗戦。
このときの試合映像はまだ持っているものの、まあ実にワタシの攻めは余裕で受け流されています(笑)。
当時の得意技だった袖釣り込みで1Pは奪ったものの、普通にポイント差で負けました。
その唯一の投げポイントも、受けてくれた感が否めないものでしたし。

日本代表との本番を控えたロシア人に余裕で受け流された私は軽くショックを受け、
当時の水商売のバイト先に「ロシア人に頭から投げ落とされて……」とか言って
嘘の理由で休もうとしたところ、怖い怖いバイトの先輩に怒られて出勤した……、
そんな下らない出来事こそ、20年経っても人生覚えているものです(笑)。

……とまあ、ここまで書いてみて、文体が前回までと違うことに気づきましたが、
そのときの気分で書いているので、あまり気にしないでください!

で、その秋、またサンボ全日本選手権が訪れます。

頑張って本来の57kg級に体重を落とし、年齢も上がったので
ジュニアからシニアの部になって臨んだわけですが……。

この全日本で、ある「事件」が試合前に起きます。

会場で、私はスポ館の後輩を見つけました。
坊主頭のF村(後に失踪・行方不明)が座っていたので、
後ろから「オイ!」と肩を叩いたところ……。

つづく。

2010年9月20日月曜日

「柔術、どれぐらいやってるんですか?」7

全日本準決勝の相手は、元木康年(自衛隊)。
後のレスリング五輪代表であり、ナショナルチームのコーチを務めることになる人間である。

結果から先に言うと、私はポイントで勝利した。
確か、片足タックルで2度ほど尻餅をつかせたと思う。
だとすると、2-0とか3-0ぐらいか。

元木選手からタックルを取れたのは、彼が柔道からレスリングに転向して間もない時期であり(これは後で人から聞いた話。対戦した時は純粋な柔道家だと思ってた)、しかも専門はグレコローマンだったからである。

この一戦は、割と覚えている。
序盤にポイントをリードした自分は、足立戦同様に守りに入った。
まともに組み合わず、タックルを仕掛けたり、跳びつきアキレスなどの飛び道具を掛けたり。

そんなこんなでブレイクでスタンドになったとき、苛立った元木選手は突然口走った。
「逃げんなよ!」
え……。
今のルールなら、試合中にそんなこと言ったら、どうなんだろう?

その後、流れの中でグラウンドになり、私は膝固めに入った。
相手はディフェンスを知らない。
取れる!
しかし、いきなりレフェリーにブレイクさせられた。
相手が防御しようと、爪先をつかむ反則を犯したからだ。
反則だからブレイクだなんて、こちらの攻め損だろう。
今のルールなら、どうなんだろう?

さらに、今度はスタンドで組み手争いのときに、元木選手の指が目に入ってしまった。
故意ではないと思うが、このサミングでしばし中断。
(おかけでしばらく目の中の赤い斑点が消えなかった)。

そんなこんなで、準決勝はちょっと因縁めいた試合となったが、しかし、自分は序盤のポイントを守り切って勝利した。

そして、決勝。
相手は国際武道大学柔道部、与那嶺選手。

試合は、まったくこちらの技は通じなかった。
得意の片足タックルも駄目だった。
ポイントで普通に負けてしまった。

試合後は、そのままトイレに駆け込み、号泣。
ただ、ただ、試合で何も出来なかった自分が情けなかった。
試合で負けて泣いたのは、これが最初で最後だったか。
いやあ、純粋だった(笑)。

私に勝った彼は、確かその年のサンボ国際大会でジュニアの部で入賞していたから、やはり実力差はそれなりにあったのだろう。

大会後の打ち上げがあって、スピーチの番が回ってきた私は、「大学に入ったら、柔道部とレスリング部に入って、次は優勝する!」なんてことをぶちまけた。
いやあ、若かった(笑)。

全日本が終わり、私はすぐ受験勉強に集中。
そして、法政大学経済学部に入学した。
憧れの大学生活で待ち受けていたものは……。
つづく。

2010年9月5日日曜日

「柔術、どれぐらいやってるんですか?」6

さて、週1更新目標といいつつ、1カ月以上更新の無かったこのブログ。
ようやく更新いたします。

2度目の全日本選手権は1988年、自分は浪人生、予備校生のときである。
このときジュニア(19歳以下)62kg級にエントリーしたというところまで、前回書いた。

自分は1回戦は試合が無く、2回戦から登場した。
相手は、足立弘成。
当時の彼は高校3年生である。その後の活躍については知る人も多いだろう。
ソ連にサンボ留学も果たし、本場の技術を習得。
シニアの部でも全日本王者となった。
格通のサンボ技術講座連載にも登場し、“怪物くん”萩原幸之助さんと共に“ヒットマン”のニックネームでも知られた。
最近では、中井祐樹さんも絶賛したあの『ロシアンパワー養成法』の著書として有名だ。

その足立君とは2回戦で対戦した。
しかし、内容はほとんど覚えていない。
両足か片足かのタックルで2回ぐらい倒したような気がする。
とすると、2-0、3-0ぐらいのポイントで勝利か。

しかし、彼はこの試合が非常に悔しかったようだ。
というのも、彼がやっていた昔のHPに、そのときの思いが載っていたのだ。
私(和良)は自分がポイントを取った後は、時には掛け逃げのようにしてうまく相手の攻めを凌いでポイントを守り切ったようだ。
「ようだ」と書いたのは、試合内容を覚えていないからだが、かろうじて覚えている準決勝もそんな感じだったので、恐らくそうなのだろう。
試合について、一本取るか取られるかのような武道的な感性を持っていた彼は、私の試合ぶりが腹立たしかったようだ。

実は、私は格闘技マスコミに入った90年代半ばから、再びサンボの練習を(ちょろっと)再開したり、サンボを仕事として取りあげるようになったりして、再び足立君とも関わりが出来た。
そんなとき、「また試合やりましょうよ」と彼に何度か言われたのだが、まさかそんな想いがあるとは想像だにしなかった(笑)。
ただの冗談にしか受け止められなかった。
それが1995、1996年ぐらいの話。

例えば、柔道だと分かりやすいかもしれない。日本の柔道が世界で勝てないとき、日本は一本を取る柔道だが、外国はポイントで勝つ柔道だから……というような説明がよくされる(この言論自体は間違いだが、本旨から外れるため深追いしません)。
しかし、私自身はサンボの勝負に関しては、「ポイントで勝つ競技」という以上の観念を持つことが無かった。
そのため、自分がポイントで優勢に立ったら、普通に守りに専念もした。
まあ、足立君自身も、そのHPに文章を書いた時点では、当時の自分の考えは間違っていたという感じで昔を振り返っていたわけであるが。

正直に言っておくと(言わなくても歴然としているが)、結局サンビストとしては、足立君のほうが遙かに高みに行った。
私のサンボの現役時代は足かけ4年程度だったが、彼のサンボに関する探究心はやむことがなかった。
『ロシアンパワー養成法』の内容を眺めれば、彼の達したレベルの高さは一目瞭然であるが、それ以前からも分かっていた。
田中康弘さんが教えていたカルチャーセンターでの指導で、私は大森教室があったときにアシスタントをしていたのだが、たまに顔を出していた足立君の技術には唸ることも多かった。

話を戻そう。
2回戦で足立君に勝利した後に迎えた準決勝。
相手は、元木康年(自衛隊)。
後のレスリング五輪代表であり、引退後はナショナルチームのコーチまでも務めた選手である。

続く。

2010年8月1日日曜日

亡くなったサンボの先輩のこと

更新、ご無沙汰です。
最近、ちょっと書くモチベーションが落ちてました。
が、書く理由が出来ました。
今回は特別編です。
 
 *  *  *

前回、「先輩方、特に神奈川大学レスリング部OBの先輩からは、両足タックルや片足タックルなどを教わった。」と書いた。
この先輩が先週ガンで亡くなった杉本靖さんである。

私の七つ上なので、高2の春にスポーツ会館に入ったとき、杉本さんはもう社会人だった。
最初、杉本さんは「オオヤマ、オオヤマ」と呼んだ。
というのも、私は入門当初は柔道衣で練習していて、胸に高校名を入れていた。
しかもマジックで(笑)。
杉本さんはそれが名前だと思ったらしい。

しかし、内気なW少年は、遙かに年上の先輩に「いえ、自分の名前は……」と言いだせず、しばらく「オオヤマ」と呼ばれるに任せていた。
やがてそのことに気付いた杉本さんは、次に「コウイチ」と呼ぶようになった。
遙かに偉くて強い先輩に下の名前で呼ばれるというのは、嬉しいものである。
練習後の飲みの席にも、高校生の自分をよく誘っていただいた。

杉本さんは強かった。
私がサンボを始める前から全日本で入賞されていて、その後もずっと現役時代は全日本では入賞台の常連だった。
私がいた当時は同階級(57kg級)だったので、よくスパーしたが、勝った記憶がほとんど無い。
レスリング部出身の杉本さんとスパーをすると、組んでも自分の柔道の投げ技は何も通用しなかった。
かといって、タックル系統を仕掛けようにも、その杉本さんから教わったのだから、本人には通用せず。
自分の投げが潰れたところを、固められて十字を取られるというパターンが多かったように思える。

ただ、一回だけ覚えている。
いつものように自分の技は何も通用しなかったのだが、右手で相手の袖口をつかんだ瞬間、突然ひらめくものがあって、袖釣り込み腰をやった。
自分が持っている技はすべて見きっていた杉本さんを、初めて掛ける技で完全に投げたのだ。
スパー後、現在千葉で県会議員をやっているEさんが「すごいな、練習していたのか」と寄って来た。
「いや、イメージトレーニングしてただけで、技を掛けるのは初めてです」と答えると、「それが本当ならお前は天才だ!……でも、普段の練習を見るとそうとはとても思えないがな」とEさんは笑った。
しかし、その袖釣りも杉本さんには、もう永遠に掛かることはなかった。

大学に入ると遊んでしまった私は練習量も落ち、大学1年の全日本で1回戦負けしたのを機に、スポーツ会館から足が遠のくようになる。
杉本さんにはいろいろとお世話になったのに、ちゃんと挨拶をせずにサンボから離れてしまったのは、正直、どこか後ろめたさがあったままで。

その後、自分は格闘技マスコミに入ることによって、またサンボとかかわりができるようになった。
杉本さんとも、サンボの大会会場で会ったとき、軽く挨拶を交わすようになった。
そんな関わりだった。

今年の全日本前日にあった連盟理事会で、同じく理事である杉本さんが欠席したこと自体は何とも思わなかったのだが(所用で欠席する理事は多いので)、ただ事前の出欠報告自体も無届けであったことを知り、「あれ……」と引っかかるものがあった。
いま思えば、その頃は本当に最後の闘病時期だったのだ。

タックルの練習なんてここ何年もやっていなかったけど、あの頃の杉本さんの教えを思い出して、今度ちょっとやってみたくなった。

2010年7月19日月曜日

「柔術、どれぐらいやってるんですか?」5

「サンボ編」続き。

ということで、高校2年の5月、スポーツ会館のサンボスクールに入会したW少年。
練習は水・土・日曜日の週3回。
本当はサンボスクールの人は(スポーツ会館の正会員と違って)3回の中の2回の曜日を選ぶという形だったが、W少年は構わずに3回とも通っていた。

先輩方にはかわいがってもらったと思う。
練習後には、よく飲み屋に連れて行ってもらった。
酔っ払って人を一本背負いで投げたり(おかげで酒乱キャラになった・笑)、潰れて立てなくなったり、そうなると当然翌日は二日酔いだったが、そういうことは高校時代にたいがい経験した。

先輩方、特に神奈川大学レスリング部OBの先輩からは、両足タックルや片足タックルなどを教わった。
道衣を着た中でのタックルは、レスリングから少し入り方を工夫しなければならない。
打ち込みも毎回セットでいっぱいやった。
わりと片足タックルは得意技になった。
レスリング出身者は他に何人もいたけれど、スパーではレスリングのインターハイ経験者に片足タックルも決めた。
サンボに本当に打ち込んだ現役時代は、実質3年間ぐらいだが、この時期にタックルを真剣に練習していたのはよかったと思う。
タックル、なかでも持ち上げタックル・すくい投げのような、持ち上げる系統の技を練習すると、体全体の力がつき、体の軸がつくられると思う。
後に、柔術黒帯世界王者になるマリオ・ヘイスに両足タックルでテイクダウンを取れたのは、この時期の「貯金」である(とは言っても、お互い青帯のときのムンジアルで自分は一本負けし、向こうはオール一本勝ちで優勝…)。

自分の現役時代、サンボの大会は年に一回の全日本しかなかった(現在はフレッシュマンとか団体戦とか東日本とかいろいろある)。
当時の全日本は、メディア的にも注目され始めた時期でもあり、今よりも参加者は遙かに多く200人以上いて、大会は2日間にわたって開催されていた。
東海大や国際武道大などの強豪大の柔道家や、オリンピック経験者も含めた強豪レスラーもよく出て来たし、それに純正サンビストも絡んでいって、試合には「異種格闘技戦」のような趣があった。

自分が最初にサンボの大会に出たのは、高3のときの全日本選手権。
当時は57kg級。
結果は、1回戦負けだった。
相手はレスリング出身、サブミッションアーツレスリング(SAW)で名を知られた選手で、かつサンボでも入賞者だった。
試合内容は覚えていないが、今でも唯一覚えていることは、相手が抑え込みのときに、自分の短パンをつかみながらだったこと。
これはサンボでは反則である。
アピールしたかどうかも覚えていないし、それがなかったら抑え込みから逃れていたかどうかもあまり関係ないとは思うが、悔しかったのは覚えている。

実はこのときの全日本をレポートした格闘技雑誌があって、それに自分の姿も載っている。
『格闘技界』という、確か7、8号ぐらいで潰れた雑誌だ。
この『格闘技界』はあまりに売れなくてやけっぱちになったのか、最終号は突然女子プロレス特集となり、いま話題の風間ルミが表紙を飾っていたことを覚えている(笑)。

自分にとっての2度目のサンボの試合は、それから1年後の全日本選手権。
年は1988年。自分は浪人生で、予備校生だった。
柔道は高校卒業からやっていなかったが、サンボの練習はずっと続けていた。
この年の全日本は確か10月だったから……、入試まで3、4カ月しかない追い込みの時期、ちゃんと勉強しろよという話だが(笑)。

このときは申込締切までの段階で、前年と同じ57kg級には減量できそうもないと判断。
ジュニア(19歳以下)62kg級にエントリーした。

続く。

2010年7月13日火曜日

「柔術、どれぐらいやってるんですか?」4

そして「サンボ編」。

高校2年の5月、スポーツ会館のサンボスクールに入会したW少年。
なぜサンボを始めたか、それは柔道が強くなるためだったということは、前回書いた通り。
自分がタイガーマスク=佐山聡ファンだったことも前に書いたが、当時のターザン山本編集長時代の『週刊プロレス』では、「全日サンボ選手権出場」を宣言した佐山聡のことを取りあげ、ビクトル古賀氏の元でサンボ特訓に励む姿を毎週のように追っていたのだ。

実際には、佐山聡は全日本選手権を欠場し、当日デモンストレーションを披露しただけに終わったのだけど(このあたりは、現在発売中の「Gスピリッツ」誌のビクトル古賀先生インタビュー参照のこと)、この全日本選手権観戦と『これがサンボだ!』購入を決め手にして、翌月からW少年はスポーツ会館に通い始めた。

よく「高校2年生からサンボを始めた」と言うと、「そんな若いときから」という反応をされることがあるけども、当時は別に珍しくも何とも無かった。
普通に高校生は他に何人もいたし(柔道やっている子も、何も格闘技経験が無い子も)、大学生も、社会人もいた。
そして、私が通い出したこの春には、サンボを始めようという人間がスポーツ会館に殺到していた時期だった。
その多くがプロレスファンだった。
それはそうだろう、みんなきっかけは『週刊プロレス』なのだから(笑)。
週プロは、イチ格闘技道場に入門者を殺到させるだけの力を持ったメディアだった。

現在のメディア状況しか知らないと想像しにくいだろうけども、1986年5月の時点で「格闘技雑誌」なんて日本には存在しなかった。
この全日本選手権の後に、格通もゴン格も、1986年後半に創刊されることになる(確かフルコンもほぼ同時期だった)。
プロレスファンはUWFを経由して、私のようにサンボを知り、上記の格闘技メディアの誕生によって、世界のさまざまな格闘技へ目が開かれるわけである。

私がターザン山本という人に一番感謝しているのは、このサンボという格闘技に私の目を向かせてくれたことである。

まあ、それ以前に格闘技誌がまったく無いわけでもなかった。スポーツライフ社から出ていた『マーシャルアーツ』は何度か買った。
うーん、渋い高校生だ。
しかし、それも「UWF特集」のときだったけど(笑)。

ああ、当時の状況を説明していると、なかなかサンボの本題に入っていかない。
でも、このブログではそういうことも書き残していこうと思っています。

続く。

2010年7月4日日曜日

「柔術、どれぐらいやってるんですか?」3

今回は、「柔道部編」です。

某都立高校入学と同時に柔道部に入るわけですが……。
入学時の自分は非常に線が細かったんです。50kgもギリ無いぐらい。
現在の私を知る人は想像できないでしょう……(笑)。
それで柔道部はさすがに厳しいので、今まで茶碗1杯だったご飯を3杯にすることにしました。
これは1カ月ぐらいで挫折しましたが、体重は10kg増量しましたね。
その後はご飯を2杯に減らしましたが、体重はそのまま60kgぐらいを3年間維持しました。

しかし、正直言って、私は柔道がすごく弱かった。
試合に出ても、全っ然勝てない。
高校1年春に入部して、だいたい1年の冬には昇段試験を受けるわけですが、それは高校から柔道を始めた者も一生懸命やっていれば、だいたい黒帯を取れちゃうものです。
8割ぐらい合格する感じだったかな?
しかし私は自信が無くて、当日、風邪か何かの言い訳でドタキャンというヘタレぶり。
いやあ、こんな情けない記憶を何十年かぶりに引き出しました……(笑)。
黒帯は2年になってすぐ取れたかな。

もともと柔道部の顧問の先生(在学中に2回変わっていますが)からして、みんな本職は「合気道」の先生でした。
なので、技術は基本的には自分で、柔道の技術書から学ぼうとしました。
醍醐先生の本とかその他数冊……。

そういえば、今の柔道の本ってすごく親切で、写真もカラーで見やすいし、時にはDVDまで付いていたりして、本当に分かりやすいですよね。
昔の本はモノクロばかりでちょっと見にくい上、実戦ではほとんど使われない「形」の技も網羅されていて、そういうのまで真剣に読んでました(笑)。
誰も何も言ってくれないから(先輩たちも同じような状況なので)、自分の体型には合わない技まで真面目に練習して、でも全然乱取で掛からなかったり……。

あと、いろいろな部活と一緒に体育館を使っていたので、毎日練習できたわけではなく、しかも練習の前後に畳を敷いたり戻したりしなくてはならなかったので、1日2時間ぐらいだったかなあ……。
自分が高校3年で引退してすぐに武道場ができて「この野郎」とは思ったのですが、武道場のこけら落としのときに先生の演武の受けを務めたことは覚えています。

でもまあ、都立高校の弱小柔道部というのは、現在でもそんな感じなんですかね?

当時の地区の試合は、団体戦がほとんどで、個人戦もたまにはありましたが、いずれもすべて「体重無差別」の試合でした。
そして、私個人は、しばらく「全敗」でした……。

ただ、私たち1年生の代は、割と強かったのです(自分以外は)。
経験者もいたし、未経験でも巨漢が何人かいて、高校1年の冬には団体戦で先輩チームが早々負けたのに、我が1年生チームが都大会に進出してしまったことがあります。
これは弱小柔道部にしては、「奇跡」のような快挙だったのです!
ベスト4だかベスト8まで残れば都大会に出られるのですが、あと1試合勝てばその出場権が手に入るという地区大会の一戦で、この弱い私が「奇跡の引き分け」を果たして、無事都大会に出れる一助となったのが、この時期の唯一の誇らしい思い出です(笑)。
まあ、都大会ではレベルの差を思い切り見せつけられて、1回戦で普通に0-5で敗れましたけどね(そして、それが最初で最後の都大会でした)。

ということで、弱い自分は、高校2年の春からサンボを始めます。
「サンボ編」は次回書くので、ここでは簡単に触れるだけにしますが、他の人がやっていないような変わった技術を取り入れて、柔道が強くなりたかったわけです。
それで、柔道部の練習後、新大久保のスポーツ会館まで通い、サンボを練習しました。

結局、私の柔道初勝利は、高校2年の冬までかかります。
サンボを始めて1年近く経って、ようやく結果が出せたことになります。
寝技で相手が上から被さって来たところを、瞬間的に首を抜いて腕を抱えて脇固めで一本勝ち。
サンボというより、当時ハマっていたUWFの藤原善明のイメージだった気もします(笑)。
そう、高校生のときは初期UWFの後楽園ホールによく通いました。

その初勝利をきっかけに、急に試合で勝てるようになりましたし、他校との練習でも分がよくなりました。
とはいっても、高校3年の夏には引退するので、もう遅いわけですが(笑)。
その後、試合は2回ぐらいあったのかな。
個人戦の無差別で、自分よりデカイ相手に2、3回勝った後、百何十kgのデブとやって互いにポイントは無く判定で敗れたのが、最後の試合だった気がします。

当時のマイヒーローは、同世代の世田谷学園の秀島大介でした。
後に幕張の世界選手権でチャンピオンにもなりますね。
吉田秀彦の同世代でもありますが、私としては吉田よりも、小さな体で百キロ以上ある相手を引きずりまわして投げる秀島のほうに、目が釘付けになっていました。
なので、最初の吉田×ホイス戦のとき、秀島の職場に行って試合の予想を聞いたのですが、高校時代の憧れの人を前にして感慨深かったことを覚えています。
そのときは、同時掲載の古賀稔彦インタビューのほうが反響を呼びましたが。
とにかく、私の柔道における憧れと、イメージするスタイルは、秀島大介だったのです。

初勝利後からは調子づいて、地区の柔道部数校が集まっての合同練習で、どこかの顧問先生を立て続けに投げたこともありました。
組み際に一本背負い、また組み際に小内巻き込み……。なんて「KY」なことをしたのか(笑)。

当時は一本背負いと小内巻き込み、袖釣り込みをよく使っていたと思います。
サンボではタックルを両足、片足とも相当練習していて得意でしたが、でも柔道の試合では使いませんでしたね。
肩車や裏投げみたいな技もサンボで練習はしましたが、自分自身が得意にしていたというわけではなかったし。
確かに寝技は強くなりましたけど、引き込み十字とかも、柔道だと引き込みの注意を受けやすいので、ほとんど使っていないし。
いま思えば、直接的にサンボの技はそれほど高校柔道部時代には使っていなかったと思います。

ただ、それでも柔道の試合で勝ち始めるようにはなったのは、単純に高校の練習と掛け持ちで練習量が増えたこと、スポーツ会館の施設でウェイトや走り込みも増えたことも大きかったのかなと。
スタイル的には組み際の技、組んだ瞬間に先に掛ける技が多かったけれども、崩れて寝技になってもサンボのおかげで自信を持つことが出来たという部分はあったと思います。
あとは、いわゆる柔道スタイルの相手にどうやって勝つのかという発想が、スポーツ会館の人間にはみんなあったので(全日本で当たる柔道家対策として)、そういう部分で頭を使うようになったとは思います。

あと、高校2年から3年に変わるときに、板橋から埼玉に引っ越ししたんですが(高校はそのまま同じ)、これを機に近所の柔道の町道場にも通い始めました。
理由は、柔道部にいながら、柔道の基本があまり無かったから。しかも、それを補うためにやっているのがサンボだし(笑)。
でも、あんまり長く続きませんでしたね。

私は基本的に、勝負事は「KY」なのです(さっきの合同練習の話しかり)。
あるとき、そこの町道場の先生との乱取で、私は一本背負いで投げました。
完全に投げたのに、「そんなんじゃ有効も取れんぞ」とか言われてカチンと来て、また一本背負いで投げたり……。
寝技でも、サンボ仕込みの十字を取ってしまった気が……。
もともと「変形柔道」なので先生によく思われていなかった上、そういう出来事もあって行きにくくなり、なおかつ道場の中学生も生意気で(笑)、数カ月で足が遠のきましたね。

結局、華々しい成績は何もなかったですが、高校3年の夏には部活を引退しました。

まあ、今から見ると、高校の部活の他にサンボを続けて、あと一時期だったけど柔道の町道場やスーパータイガージムにも通ったりして、とにかくなんか溢れる熱意だけは感じられる高校生でしたね(笑)。

ちなみに、『ゴング格闘技』で巻末に柔道のコラムを書いている磯部さんは調査力が素晴らしく、恐らく日本一の柔道マニアだと思うのですが、最初に執筆依頼の席で「確か○○高校ですよね?」と私に言いました。
いや、この方は恐ろしいですよ(笑)。

しばらく経って、務め人になってから高専柔道を始めるのですが、いわゆる普通の柔道をちゃんとやったのは、この高校3年間です。
柔道の基本も身に付いていないし、線も細い、弱小柔道部の一員にすぎなかった自分が、サンボの道場に通い、高2の終わり頃から柔道でも勝ち始めた。
そんな感じの3年間でしたね。

続く。

2010年6月27日日曜日

「柔術、どれぐらいやってるんですか?」2

タイガージム時代の話です。

前回、初めていわゆる格闘技ジムに入ったのは、タイガージムだという話をしました。
タイガージムに入門したのは、総合格闘技をやりたかったから?
いえ、当時は「総合格闘技」など存在しませんでした。
それどころか、いまみんなが「格闘技」という言葉を口にするときに思い浮かべるものと(PRIDEとかK-1とか)、当時の「格闘技」という言葉の概念自体、ずれていると思います。
はっきり言えば、入門したのはW少年がプロレスファンであり、タイガーマスクファンだったからです。

初代タイガーマスクが突如引退したのは、1983年8月ですね。
その後、しばらくして、当時あった『エキサイティング・プロレス』という新興の月刊プロレス誌で、私はタイガージムのオープン情報を知ったと思います。
世田谷区瀬田に「ザ・タイガージム」ができたのは、1984年2月。
今月発売された『Gスピリッツ』は初代佐山タイガー特集号ですが、ここに掲載されてある道場開きの写真、私、似た写真を持っています。
その場にいたから(笑)。

つまり、私は中学2年の冬に、タイガージムに入門しました。
でも、タイガージムは数カ月で閉鎖しました。
施設の使い勝手が理由として挙げられていた気もしますが、確か、佐山さんのマネジャーだったショウジ・コンチャ氏との決別が理由だったような……。
中学生なので、大人の事情はよく分かりません。

ということで告白しておくと、日本スポーツ出版社時代に初めて自分が編集した本『修斗読本』で、「ザ・タイガージム」時代のTシャツとかグッズを掲載しているページがありましたが、あれは自分の私物です(笑)。

「ザ・タイガージム」が閉鎖した後、世田谷区の三軒茶屋に「スーパータイガージム」がオープンしたのは、年をまたいで1985年だったと思います。
私も高1になっていましたね。
当然、入会したのですが、数カ月で退会しました。

シュートボクシングの旗揚げ戦(1985年9月)を観に行って、メインのシーザー武志vs力忠勝の試合とかその後の乱闘劇を「プロレスっぽいなー」とか思ったプロレス少年ですが、旗揚げ戦の前売りチケットは、ジムで買いました。
「シューティングとシュートボクシングはどう違うんですか?」って、インストラクターの田中さんに質問したら、何かムニャムニャと答えられてよく分からなかった記憶があります。
初期のシュートボクシングはよく観に行きましたね。シーザーさんとジェームス・バシムとの試合とか……。
いやー、マニアックな高校生ですね。

それで、この後、たぶん高2ぐらいに、またスーパータイガージムに再入会します。
柔道部の同じ学年(だったけどダブって一個下になった)の仲間が「俺もやりたい」というので、一緒に入ったんです。
しかし、これもまた数カ月で辞めましたね。

タイガージムに在籍していたのは、たぶん全部を足しても1年に満たない気がします。
なんで続かなかったんだろう。
それは、W少年が基本的にただのプロレスファンであり、ただの佐山ファンだったからです。
後に、佐山さんも含めていろんな初代シューターに「あの頃はプロレスファンばかりいて……」と迷惑顔で回想される存在の一人だったわけです(笑)。

それで、練習もひたすら、ひたすら地味だった。
技とかは何も習いませんでしたね。
ブリッジみたいな基礎体力トレーニングばかりやっていました。

別にW少年も本格的に「格闘技」を志していたわけではなかったし、「ただのプロレスオタクたちに技を教えても怪我するだけだ」と思われていたのでしょう。
今ならどこかの格闘技道場に入門して、何カ月も技一つ教えないというのはありえない。
まあ、そういう時代だったんです。

せいぜい、ステップしながら脚を左右交互に上げるみたいなことをやった記憶があるぐらいで。
これは今でいえば、よくフィットネスジムにスタジオで格闘技の動きを取り入れたクラスがありますが、ああいう「ファイトビクス」的なものはありましたね。

特に、スーパータイガージムのときは、弱小といえども高校で柔道部だったので、その仲間と寝技のスパーをやろうとしたら、宮戸さん(だったかな?)に怒られた気がします。
当時は、一般会員たちには体力トレーニングだけやらせるという方針だったと思われます。
つまらなくてマットの端に座っていたら、「座っているなら帰れ」的なことを宮戸さんに言われた記憶が残っています。
こういう嫌なことって、忘れないものですね(笑)。

当時のインストラクターには山ちゃん(山崎一夫)、宮戸さん、ポッチャリした田中さんというインストラクターがいました。
ある動きがなかなか言われたように出来なかったとき、宮戸さんに「なんでできないんだ」的に怒られたら、横にいた山ちゃん(いい人)が「まあまあ」みたいに宮戸さんをなだめてくれたことも忘れられません(笑)。

ですから、本当の初期だったし、メディアで佐山さん以外の人が取り上げられることも無かったので、後から活躍することになる同じ会員さんのなかで覚えている人もいないです。
あとで、格通で顔を見て、その特徴的な顔立ちから「ああ、この人は覚えている」と思ったのは、シュートボクシングやキックで活躍することになる勝山さんぐらい(笑)。

「地獄の特訓」で語り継がれることになる初期のシューティングは、この後の話ですね。

まあ、これが私のタイガージム時代でした。

続く。

2010年6月22日火曜日

「柔術、どれぐらいやってるんですか?」1

たとえば練習後に着替えているときに、人からそう聞かれたり、あるいは人に聞いたりする会話のやり取りは、きっとどこのどんな道場でも見られる光景だろう。
かく言う自分も、数カ月に一回の割合で、新しい会員さんから聞かれている気がするが、実はいつもあまりうまく答えられない質問である。
そのときによって、5年と言ったり、10年と言ったりする。
単純に「柔術道場に所属した期間」とすれば、5年程度だろうけども、でも、本当は自分は「柔術」をどのぐらいやっているのだろうか?

ここらで、一度、自分の「格闘技歴」を簡単にまとめておこうと思う。
足かけ16年間、格闘技マスコミに携わったにもかかわらず、ちゃんと自分自身の格闘技歴をまとめて書くのは、今回が初めてである。
それはただの自分史の一部であるが、その時代、時代の格闘技史にも連なっている。

そう、初めて格闘技の道場に入門したのは、中学生のとき。
世田谷区瀬田の「ザ・タイガージム」である。
そこまで遡るか(笑)。
続く。

2010年6月13日日曜日

書評その1

『ロシアとサンボ』の書評や感想がブログで出始めました。

ジョシカクのご意見番である長尾メモ8さん。
http://d.hatena.ne.jp/memo8/20100612/p1

サンボの怪物君こと萩原幸之助さん。
http://blogs.yahoo.co.jp/hagi0319/63566097.html

ビクトル古賀先生の息子さんである古賀徹さん。
http://koga.at.webry.info/201006/article_3.html

広瀬武夫の市井の研究者である土原ゆうきさん。今回出版前に原稿を見ていただいたり意見交換をしたりしました。
http://www16.ocn.ne.jp/~murakumo/000-0.html

柔術道場トライフォースの先生である石川祐樹さん。
http://tfkojimachi.blogspot.com/2010/06/blog-post_9565.html

以上、面識のある方ばかりですが、それ以外ではnoripさんという方に書評していただいています。
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/6455311

これからご感想をブログなどで書かれる方は、ぜひ読んでみたいのでお知らせください。
よろしくお願いします。

2010年6月12日土曜日

虚栄心

実はまだ幸いにも誰からも指摘されていないが、
先に他人に指摘されるとこっぱずかしい間違いがある。
奥付のプロフィールに「全日本サンボ選手権ジュニア62kg級優勝」とあるのだが、
これは「全日本サンボ選手権ジュニア62kg級準優勝」が正しい。
「準」の脱字である!
決して、嘘をついてまで自分を大きく見せようとしているわけではないのです。
増刷のあかつきには(やれんのか?)直しますので。

…そんな話とは別に、私が浪人生のときに出たこの大会で、
『ロシアンパワー養成法』の足立氏、レスリング五輪代表の元木氏と戦っているのですが、
そのことはいつか書きます。

サンボの歴史

このたび、『ロシアとサンボ~国家権力に魅入られた格闘技秘史~』(普遊舎)という本を出したのですが、
それを機にサンボの歴史について、ちょっとまとめた原稿をつくってみました。

         ◎

サンボの歴史は、いくぶん複雑です。
それは世界最初の社会主義国家であったソビエト社会主義共和国連邦の抱える歴史の複雑さと相似形であるともいえます。
ソ連時代には、アナトリー・ハルランピエフという人物がサンボの創始者の座に据えられていました。
しかし、それは情報統制が施されたソ連という国家における、いわば一つの「物語」でありました。
現在の視点から、サンボの創始者を一人挙げるならば、それはワシーリー・オシェプコフを置いて他にはないといえます。


1892年の暮れにサハリンで生まれたオシェプコフは、1908年に日本の神学校に留学を果たしました。
このとき講道館に入門し、最終的には二段を取得しています。
帰国後、ウラジオストクで柔道クラブを開設したオシェプコフは、スポーツ競技としての柔道だけでなく、実戦的な自己防衛術としての〈柔道〉を広めていきます。
1930年代、オシェプコフはモスクワを拠点に弟子たちを育成し、彼らはレニングラードを始めとした各地方に〈柔道〉を指導し、広めていきました。
しかし、スターリン時代にあって、大粛清が始まったとき、オシェプコフは「日本のスパイ」という無実の容疑で1937年に逮捕・投獄され、この世を去りました。


1920年代から1930年代にかけては、オシェプコフ以外にもサンボを形成していくもう一つのラインが存在しました。
ビクトル・スピリドノフは、柔術をもとにした自己防衛術を編み出しました。
スピリドノフの格闘技は〈サモザシータ・ベズ・アルージャ〉、日本語に訳すと〈武器無しの自己防衛術〉というものでした。
そう、〈サンボ〉の語源は、この〈サモザシータ・ベズ・アルージャ〉の頭文字を組み合わせたものです。
スピリドノフは、〈ディナモ〉という内務省・秘密警察のスポーツ団体に支持されていました。
基本的には自己防衛術を一部の人間のために指導したスピリドノフと、自己防衛術だけでなくスポーツ競技としての〈柔道〉を重視し一般市民に広めていったオシェプコフとは、まったく別のベクトルを向いていました。
すなわち、スピリドノフの〈サンボ〉は、後の軍隊格闘術〈コンバットサンボ〉に直接つながる流れだったといえます。
ただし、スピリドノフもスポーツ競技としての体系もつくり、単発ながら道衣着用での試合も行なっていたことも事実です。
何よりも、〈サンボ〉の名前を残したという意味では、スピリドノフも貢献者の一人として挙げなければなりません。


オシェプコフ粛清後に、話を進めます。
ソ連という国は、この創始者を葬っても、〈柔道〉の価値自体は十分に認めていました。
そして、この格闘技には、日本由来のものではない、ソ連のイデオロギーの中でつくられた「新しい器」が必要だと考えました。
1938年、オシェプコフの弟子であったアナトリー・ハルランピエフの手により、ソ連各地の民族レスリングの技を集めたという〈ソ連式フリースタイルレスリング〉の誕生が宣言されます。
これは後のサンボになります。
〈ソ連式フリースタイルレスリング〉は、ソ連国民に義務付けられたGTOという運動能力検定制度の中にも組み込まれ、いわゆる「国技化」をもたらしました。
間もなく第二次世界大戦が始まると、独ソ戦では格闘家やスポーツ選手を中心としたOMSBONという部隊が結成され、オシェプコフの弟子や孫弟子たちが自己防衛術の技を発揮しています。
戦後すぐに、この格闘技は〈ディナモ〉由来の〈サンボ〉の名称に変更され、ハルランピエフがそのリーダーとなったというわけです。


ハルランピエフはサンボの創始者としての地位を確立しました。
同時に、サンボという格闘技がどのように生まれたのかについて、オシェプコフの存在を排除した「物語」がつくられていきました。
「日本のスパイ」として亡くなったオシェプコフの名前は、しばらくタブーであったのです。
しかし、スターリンが死去した辺りから、少しずつオシェプコフの弟子や関係者の中から真実を語る者が現れ始めます。
さらにペレストロイカを経て、さまざまな資料が表に出るようになった現在、ロシアのサンボ研究者・専門家の多くは、ワシーリー・オシェプコフこそがサンボの創始者であるという見解を共有しています。


さて、サンボの国際的な発展はどのように進んだのでしょうか。
第二次世界大戦後、資本主義諸国との間に〈鉄のカーテン〉を降ろしたソ連では、サンボは内側で独自の進化を遂げます。
ソ連各地にある民族レスリングの影響が強まり、柔道とは技の理合がまったく異なる投げ技が生みだされました。
寝技においても、柔道と共通する肘関節はもちろんのこと、柔道では禁止された足関節も技術的に高度なものへと進化していきました。
しかし、それはソ連国内および一部の社会主義国の中での話であり、世界的には柔道のほうがいち早く普及を果たしました。
そして東京五輪で柔道の種目採用が決まったとき、ソ連は1938年の時点で一度消滅させた柔道の復活を決定します。
東京五輪前の1963年2月、ソ連のサンビストは、日ソ柔道親善試合で初来日を果たしました。
このとき、4戦無敗のシュリッツの強さは日本人に衝撃を与えています。
また、1967年6月の日ソ親善柔道大会では、全日本選手権者であり東京五輪金メダリストの岡野功を、サンビストのミッシェンコが腕挫ぎ十字固めで下しました。
このようにして、サンボ出身のソ連選手たちは、日本の柔道家に脅威を与える存在になっていったのです。
そして、サンボ自体の国際的な展開は1960年代後半から始まります。
1967年にラトビアのリガで最初の国際大会、1972年にも同所で最初のヨーロッパ選手権、そして1973年にはイランのテヘランで最初の世界選手権が開催されます。
世界選手権と同時に、世界アマチュアサンボ連盟が発足されました。
これは1985年に、国際アマチュアサンボ連盟(FIAS)に改組されています。
現在、FIASには50数カ国が加盟しており、現在に至っています。
           ◎
数日前から、日本サンボ連盟のホームページにはこの原稿が掲載されています。
それまでの長い間、ホームページに掲載されてきたサンボの歴史とは全く内容の違うものなので、
理事の一部から戸惑いの声も聞こえてきましたが、
でも、これでも「最大公約数」的な記述です。
廣瀬中佐とサンボの起源との関わりは、本の中で完全に否定しました。
今後はこれをベースにして、議論していきたいと思います。

なお、引用はご自由にどうぞ。