2010年6月27日日曜日

「柔術、どれぐらいやってるんですか?」2

タイガージム時代の話です。

前回、初めていわゆる格闘技ジムに入ったのは、タイガージムだという話をしました。
タイガージムに入門したのは、総合格闘技をやりたかったから?
いえ、当時は「総合格闘技」など存在しませんでした。
それどころか、いまみんなが「格闘技」という言葉を口にするときに思い浮かべるものと(PRIDEとかK-1とか)、当時の「格闘技」という言葉の概念自体、ずれていると思います。
はっきり言えば、入門したのはW少年がプロレスファンであり、タイガーマスクファンだったからです。

初代タイガーマスクが突如引退したのは、1983年8月ですね。
その後、しばらくして、当時あった『エキサイティング・プロレス』という新興の月刊プロレス誌で、私はタイガージムのオープン情報を知ったと思います。
世田谷区瀬田に「ザ・タイガージム」ができたのは、1984年2月。
今月発売された『Gスピリッツ』は初代佐山タイガー特集号ですが、ここに掲載されてある道場開きの写真、私、似た写真を持っています。
その場にいたから(笑)。

つまり、私は中学2年の冬に、タイガージムに入門しました。
でも、タイガージムは数カ月で閉鎖しました。
施設の使い勝手が理由として挙げられていた気もしますが、確か、佐山さんのマネジャーだったショウジ・コンチャ氏との決別が理由だったような……。
中学生なので、大人の事情はよく分かりません。

ということで告白しておくと、日本スポーツ出版社時代に初めて自分が編集した本『修斗読本』で、「ザ・タイガージム」時代のTシャツとかグッズを掲載しているページがありましたが、あれは自分の私物です(笑)。

「ザ・タイガージム」が閉鎖した後、世田谷区の三軒茶屋に「スーパータイガージム」がオープンしたのは、年をまたいで1985年だったと思います。
私も高1になっていましたね。
当然、入会したのですが、数カ月で退会しました。

シュートボクシングの旗揚げ戦(1985年9月)を観に行って、メインのシーザー武志vs力忠勝の試合とかその後の乱闘劇を「プロレスっぽいなー」とか思ったプロレス少年ですが、旗揚げ戦の前売りチケットは、ジムで買いました。
「シューティングとシュートボクシングはどう違うんですか?」って、インストラクターの田中さんに質問したら、何かムニャムニャと答えられてよく分からなかった記憶があります。
初期のシュートボクシングはよく観に行きましたね。シーザーさんとジェームス・バシムとの試合とか……。
いやー、マニアックな高校生ですね。

それで、この後、たぶん高2ぐらいに、またスーパータイガージムに再入会します。
柔道部の同じ学年(だったけどダブって一個下になった)の仲間が「俺もやりたい」というので、一緒に入ったんです。
しかし、これもまた数カ月で辞めましたね。

タイガージムに在籍していたのは、たぶん全部を足しても1年に満たない気がします。
なんで続かなかったんだろう。
それは、W少年が基本的にただのプロレスファンであり、ただの佐山ファンだったからです。
後に、佐山さんも含めていろんな初代シューターに「あの頃はプロレスファンばかりいて……」と迷惑顔で回想される存在の一人だったわけです(笑)。

それで、練習もひたすら、ひたすら地味だった。
技とかは何も習いませんでしたね。
ブリッジみたいな基礎体力トレーニングばかりやっていました。

別にW少年も本格的に「格闘技」を志していたわけではなかったし、「ただのプロレスオタクたちに技を教えても怪我するだけだ」と思われていたのでしょう。
今ならどこかの格闘技道場に入門して、何カ月も技一つ教えないというのはありえない。
まあ、そういう時代だったんです。

せいぜい、ステップしながら脚を左右交互に上げるみたいなことをやった記憶があるぐらいで。
これは今でいえば、よくフィットネスジムにスタジオで格闘技の動きを取り入れたクラスがありますが、ああいう「ファイトビクス」的なものはありましたね。

特に、スーパータイガージムのときは、弱小といえども高校で柔道部だったので、その仲間と寝技のスパーをやろうとしたら、宮戸さん(だったかな?)に怒られた気がします。
当時は、一般会員たちには体力トレーニングだけやらせるという方針だったと思われます。
つまらなくてマットの端に座っていたら、「座っているなら帰れ」的なことを宮戸さんに言われた記憶が残っています。
こういう嫌なことって、忘れないものですね(笑)。

当時のインストラクターには山ちゃん(山崎一夫)、宮戸さん、ポッチャリした田中さんというインストラクターがいました。
ある動きがなかなか言われたように出来なかったとき、宮戸さんに「なんでできないんだ」的に怒られたら、横にいた山ちゃん(いい人)が「まあまあ」みたいに宮戸さんをなだめてくれたことも忘れられません(笑)。

ですから、本当の初期だったし、メディアで佐山さん以外の人が取り上げられることも無かったので、後から活躍することになる同じ会員さんのなかで覚えている人もいないです。
あとで、格通で顔を見て、その特徴的な顔立ちから「ああ、この人は覚えている」と思ったのは、シュートボクシングやキックで活躍することになる勝山さんぐらい(笑)。

「地獄の特訓」で語り継がれることになる初期のシューティングは、この後の話ですね。

まあ、これが私のタイガージム時代でした。

続く。

2010年6月22日火曜日

「柔術、どれぐらいやってるんですか?」1

たとえば練習後に着替えているときに、人からそう聞かれたり、あるいは人に聞いたりする会話のやり取りは、きっとどこのどんな道場でも見られる光景だろう。
かく言う自分も、数カ月に一回の割合で、新しい会員さんから聞かれている気がするが、実はいつもあまりうまく答えられない質問である。
そのときによって、5年と言ったり、10年と言ったりする。
単純に「柔術道場に所属した期間」とすれば、5年程度だろうけども、でも、本当は自分は「柔術」をどのぐらいやっているのだろうか?

ここらで、一度、自分の「格闘技歴」を簡単にまとめておこうと思う。
足かけ16年間、格闘技マスコミに携わったにもかかわらず、ちゃんと自分自身の格闘技歴をまとめて書くのは、今回が初めてである。
それはただの自分史の一部であるが、その時代、時代の格闘技史にも連なっている。

そう、初めて格闘技の道場に入門したのは、中学生のとき。
世田谷区瀬田の「ザ・タイガージム」である。
そこまで遡るか(笑)。
続く。

2010年6月13日日曜日

書評その1

『ロシアとサンボ』の書評や感想がブログで出始めました。

ジョシカクのご意見番である長尾メモ8さん。
http://d.hatena.ne.jp/memo8/20100612/p1

サンボの怪物君こと萩原幸之助さん。
http://blogs.yahoo.co.jp/hagi0319/63566097.html

ビクトル古賀先生の息子さんである古賀徹さん。
http://koga.at.webry.info/201006/article_3.html

広瀬武夫の市井の研究者である土原ゆうきさん。今回出版前に原稿を見ていただいたり意見交換をしたりしました。
http://www16.ocn.ne.jp/~murakumo/000-0.html

柔術道場トライフォースの先生である石川祐樹さん。
http://tfkojimachi.blogspot.com/2010/06/blog-post_9565.html

以上、面識のある方ばかりですが、それ以外ではnoripさんという方に書評していただいています。
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/6455311

これからご感想をブログなどで書かれる方は、ぜひ読んでみたいのでお知らせください。
よろしくお願いします。

2010年6月12日土曜日

虚栄心

実はまだ幸いにも誰からも指摘されていないが、
先に他人に指摘されるとこっぱずかしい間違いがある。
奥付のプロフィールに「全日本サンボ選手権ジュニア62kg級優勝」とあるのだが、
これは「全日本サンボ選手権ジュニア62kg級準優勝」が正しい。
「準」の脱字である!
決して、嘘をついてまで自分を大きく見せようとしているわけではないのです。
増刷のあかつきには(やれんのか?)直しますので。

…そんな話とは別に、私が浪人生のときに出たこの大会で、
『ロシアンパワー養成法』の足立氏、レスリング五輪代表の元木氏と戦っているのですが、
そのことはいつか書きます。

サンボの歴史

このたび、『ロシアとサンボ~国家権力に魅入られた格闘技秘史~』(普遊舎)という本を出したのですが、
それを機にサンボの歴史について、ちょっとまとめた原稿をつくってみました。

         ◎

サンボの歴史は、いくぶん複雑です。
それは世界最初の社会主義国家であったソビエト社会主義共和国連邦の抱える歴史の複雑さと相似形であるともいえます。
ソ連時代には、アナトリー・ハルランピエフという人物がサンボの創始者の座に据えられていました。
しかし、それは情報統制が施されたソ連という国家における、いわば一つの「物語」でありました。
現在の視点から、サンボの創始者を一人挙げるならば、それはワシーリー・オシェプコフを置いて他にはないといえます。


1892年の暮れにサハリンで生まれたオシェプコフは、1908年に日本の神学校に留学を果たしました。
このとき講道館に入門し、最終的には二段を取得しています。
帰国後、ウラジオストクで柔道クラブを開設したオシェプコフは、スポーツ競技としての柔道だけでなく、実戦的な自己防衛術としての〈柔道〉を広めていきます。
1930年代、オシェプコフはモスクワを拠点に弟子たちを育成し、彼らはレニングラードを始めとした各地方に〈柔道〉を指導し、広めていきました。
しかし、スターリン時代にあって、大粛清が始まったとき、オシェプコフは「日本のスパイ」という無実の容疑で1937年に逮捕・投獄され、この世を去りました。


1920年代から1930年代にかけては、オシェプコフ以外にもサンボを形成していくもう一つのラインが存在しました。
ビクトル・スピリドノフは、柔術をもとにした自己防衛術を編み出しました。
スピリドノフの格闘技は〈サモザシータ・ベズ・アルージャ〉、日本語に訳すと〈武器無しの自己防衛術〉というものでした。
そう、〈サンボ〉の語源は、この〈サモザシータ・ベズ・アルージャ〉の頭文字を組み合わせたものです。
スピリドノフは、〈ディナモ〉という内務省・秘密警察のスポーツ団体に支持されていました。
基本的には自己防衛術を一部の人間のために指導したスピリドノフと、自己防衛術だけでなくスポーツ競技としての〈柔道〉を重視し一般市民に広めていったオシェプコフとは、まったく別のベクトルを向いていました。
すなわち、スピリドノフの〈サンボ〉は、後の軍隊格闘術〈コンバットサンボ〉に直接つながる流れだったといえます。
ただし、スピリドノフもスポーツ競技としての体系もつくり、単発ながら道衣着用での試合も行なっていたことも事実です。
何よりも、〈サンボ〉の名前を残したという意味では、スピリドノフも貢献者の一人として挙げなければなりません。


オシェプコフ粛清後に、話を進めます。
ソ連という国は、この創始者を葬っても、〈柔道〉の価値自体は十分に認めていました。
そして、この格闘技には、日本由来のものではない、ソ連のイデオロギーの中でつくられた「新しい器」が必要だと考えました。
1938年、オシェプコフの弟子であったアナトリー・ハルランピエフの手により、ソ連各地の民族レスリングの技を集めたという〈ソ連式フリースタイルレスリング〉の誕生が宣言されます。
これは後のサンボになります。
〈ソ連式フリースタイルレスリング〉は、ソ連国民に義務付けられたGTOという運動能力検定制度の中にも組み込まれ、いわゆる「国技化」をもたらしました。
間もなく第二次世界大戦が始まると、独ソ戦では格闘家やスポーツ選手を中心としたOMSBONという部隊が結成され、オシェプコフの弟子や孫弟子たちが自己防衛術の技を発揮しています。
戦後すぐに、この格闘技は〈ディナモ〉由来の〈サンボ〉の名称に変更され、ハルランピエフがそのリーダーとなったというわけです。


ハルランピエフはサンボの創始者としての地位を確立しました。
同時に、サンボという格闘技がどのように生まれたのかについて、オシェプコフの存在を排除した「物語」がつくられていきました。
「日本のスパイ」として亡くなったオシェプコフの名前は、しばらくタブーであったのです。
しかし、スターリンが死去した辺りから、少しずつオシェプコフの弟子や関係者の中から真実を語る者が現れ始めます。
さらにペレストロイカを経て、さまざまな資料が表に出るようになった現在、ロシアのサンボ研究者・専門家の多くは、ワシーリー・オシェプコフこそがサンボの創始者であるという見解を共有しています。


さて、サンボの国際的な発展はどのように進んだのでしょうか。
第二次世界大戦後、資本主義諸国との間に〈鉄のカーテン〉を降ろしたソ連では、サンボは内側で独自の進化を遂げます。
ソ連各地にある民族レスリングの影響が強まり、柔道とは技の理合がまったく異なる投げ技が生みだされました。
寝技においても、柔道と共通する肘関節はもちろんのこと、柔道では禁止された足関節も技術的に高度なものへと進化していきました。
しかし、それはソ連国内および一部の社会主義国の中での話であり、世界的には柔道のほうがいち早く普及を果たしました。
そして東京五輪で柔道の種目採用が決まったとき、ソ連は1938年の時点で一度消滅させた柔道の復活を決定します。
東京五輪前の1963年2月、ソ連のサンビストは、日ソ柔道親善試合で初来日を果たしました。
このとき、4戦無敗のシュリッツの強さは日本人に衝撃を与えています。
また、1967年6月の日ソ親善柔道大会では、全日本選手権者であり東京五輪金メダリストの岡野功を、サンビストのミッシェンコが腕挫ぎ十字固めで下しました。
このようにして、サンボ出身のソ連選手たちは、日本の柔道家に脅威を与える存在になっていったのです。
そして、サンボ自体の国際的な展開は1960年代後半から始まります。
1967年にラトビアのリガで最初の国際大会、1972年にも同所で最初のヨーロッパ選手権、そして1973年にはイランのテヘランで最初の世界選手権が開催されます。
世界選手権と同時に、世界アマチュアサンボ連盟が発足されました。
これは1985年に、国際アマチュアサンボ連盟(FIAS)に改組されています。
現在、FIASには50数カ国が加盟しており、現在に至っています。
           ◎
数日前から、日本サンボ連盟のホームページにはこの原稿が掲載されています。
それまでの長い間、ホームページに掲載されてきたサンボの歴史とは全く内容の違うものなので、
理事の一部から戸惑いの声も聞こえてきましたが、
でも、これでも「最大公約数」的な記述です。
廣瀬中佐とサンボの起源との関わりは、本の中で完全に否定しました。
今後はこれをベースにして、議論していきたいと思います。

なお、引用はご自由にどうぞ。