2010年6月12日土曜日

サンボの歴史

このたび、『ロシアとサンボ~国家権力に魅入られた格闘技秘史~』(普遊舎)という本を出したのですが、
それを機にサンボの歴史について、ちょっとまとめた原稿をつくってみました。

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サンボの歴史は、いくぶん複雑です。
それは世界最初の社会主義国家であったソビエト社会主義共和国連邦の抱える歴史の複雑さと相似形であるともいえます。
ソ連時代には、アナトリー・ハルランピエフという人物がサンボの創始者の座に据えられていました。
しかし、それは情報統制が施されたソ連という国家における、いわば一つの「物語」でありました。
現在の視点から、サンボの創始者を一人挙げるならば、それはワシーリー・オシェプコフを置いて他にはないといえます。


1892年の暮れにサハリンで生まれたオシェプコフは、1908年に日本の神学校に留学を果たしました。
このとき講道館に入門し、最終的には二段を取得しています。
帰国後、ウラジオストクで柔道クラブを開設したオシェプコフは、スポーツ競技としての柔道だけでなく、実戦的な自己防衛術としての〈柔道〉を広めていきます。
1930年代、オシェプコフはモスクワを拠点に弟子たちを育成し、彼らはレニングラードを始めとした各地方に〈柔道〉を指導し、広めていきました。
しかし、スターリン時代にあって、大粛清が始まったとき、オシェプコフは「日本のスパイ」という無実の容疑で1937年に逮捕・投獄され、この世を去りました。


1920年代から1930年代にかけては、オシェプコフ以外にもサンボを形成していくもう一つのラインが存在しました。
ビクトル・スピリドノフは、柔術をもとにした自己防衛術を編み出しました。
スピリドノフの格闘技は〈サモザシータ・ベズ・アルージャ〉、日本語に訳すと〈武器無しの自己防衛術〉というものでした。
そう、〈サンボ〉の語源は、この〈サモザシータ・ベズ・アルージャ〉の頭文字を組み合わせたものです。
スピリドノフは、〈ディナモ〉という内務省・秘密警察のスポーツ団体に支持されていました。
基本的には自己防衛術を一部の人間のために指導したスピリドノフと、自己防衛術だけでなくスポーツ競技としての〈柔道〉を重視し一般市民に広めていったオシェプコフとは、まったく別のベクトルを向いていました。
すなわち、スピリドノフの〈サンボ〉は、後の軍隊格闘術〈コンバットサンボ〉に直接つながる流れだったといえます。
ただし、スピリドノフもスポーツ競技としての体系もつくり、単発ながら道衣着用での試合も行なっていたことも事実です。
何よりも、〈サンボ〉の名前を残したという意味では、スピリドノフも貢献者の一人として挙げなければなりません。


オシェプコフ粛清後に、話を進めます。
ソ連という国は、この創始者を葬っても、〈柔道〉の価値自体は十分に認めていました。
そして、この格闘技には、日本由来のものではない、ソ連のイデオロギーの中でつくられた「新しい器」が必要だと考えました。
1938年、オシェプコフの弟子であったアナトリー・ハルランピエフの手により、ソ連各地の民族レスリングの技を集めたという〈ソ連式フリースタイルレスリング〉の誕生が宣言されます。
これは後のサンボになります。
〈ソ連式フリースタイルレスリング〉は、ソ連国民に義務付けられたGTOという運動能力検定制度の中にも組み込まれ、いわゆる「国技化」をもたらしました。
間もなく第二次世界大戦が始まると、独ソ戦では格闘家やスポーツ選手を中心としたOMSBONという部隊が結成され、オシェプコフの弟子や孫弟子たちが自己防衛術の技を発揮しています。
戦後すぐに、この格闘技は〈ディナモ〉由来の〈サンボ〉の名称に変更され、ハルランピエフがそのリーダーとなったというわけです。


ハルランピエフはサンボの創始者としての地位を確立しました。
同時に、サンボという格闘技がどのように生まれたのかについて、オシェプコフの存在を排除した「物語」がつくられていきました。
「日本のスパイ」として亡くなったオシェプコフの名前は、しばらくタブーであったのです。
しかし、スターリンが死去した辺りから、少しずつオシェプコフの弟子や関係者の中から真実を語る者が現れ始めます。
さらにペレストロイカを経て、さまざまな資料が表に出るようになった現在、ロシアのサンボ研究者・専門家の多くは、ワシーリー・オシェプコフこそがサンボの創始者であるという見解を共有しています。


さて、サンボの国際的な発展はどのように進んだのでしょうか。
第二次世界大戦後、資本主義諸国との間に〈鉄のカーテン〉を降ろしたソ連では、サンボは内側で独自の進化を遂げます。
ソ連各地にある民族レスリングの影響が強まり、柔道とは技の理合がまったく異なる投げ技が生みだされました。
寝技においても、柔道と共通する肘関節はもちろんのこと、柔道では禁止された足関節も技術的に高度なものへと進化していきました。
しかし、それはソ連国内および一部の社会主義国の中での話であり、世界的には柔道のほうがいち早く普及を果たしました。
そして東京五輪で柔道の種目採用が決まったとき、ソ連は1938年の時点で一度消滅させた柔道の復活を決定します。
東京五輪前の1963年2月、ソ連のサンビストは、日ソ柔道親善試合で初来日を果たしました。
このとき、4戦無敗のシュリッツの強さは日本人に衝撃を与えています。
また、1967年6月の日ソ親善柔道大会では、全日本選手権者であり東京五輪金メダリストの岡野功を、サンビストのミッシェンコが腕挫ぎ十字固めで下しました。
このようにして、サンボ出身のソ連選手たちは、日本の柔道家に脅威を与える存在になっていったのです。
そして、サンボ自体の国際的な展開は1960年代後半から始まります。
1967年にラトビアのリガで最初の国際大会、1972年にも同所で最初のヨーロッパ選手権、そして1973年にはイランのテヘランで最初の世界選手権が開催されます。
世界選手権と同時に、世界アマチュアサンボ連盟が発足されました。
これは1985年に、国際アマチュアサンボ連盟(FIAS)に改組されています。
現在、FIASには50数カ国が加盟しており、現在に至っています。
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数日前から、日本サンボ連盟のホームページにはこの原稿が掲載されています。
それまでの長い間、ホームページに掲載されてきたサンボの歴史とは全く内容の違うものなので、
理事の一部から戸惑いの声も聞こえてきましたが、
でも、これでも「最大公約数」的な記述です。
廣瀬中佐とサンボの起源との関わりは、本の中で完全に否定しました。
今後はこれをベースにして、議論していきたいと思います。

なお、引用はご自由にどうぞ。

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