2026年1月3日土曜日

2025年の本で印象に残った50冊

※下線は特に強く印象に残った本です。

※2024年12月刊も2025年の本として括りました。


01.秋元康隆『その悩み、カントだったら、こう言うね。』晶文社

02.朝日新聞社会部『ルポ 子どもへの性暴力』朝日新聞出版

03.飯田一史『町の本屋はいかにしてつぶれてきたか: 知られざる戦後書店抗争史』平凡社新書

04.伊藤ガビン『はじめての老い』Pヴァイン

05.宇野常寛『庭の話』講談社

06.宇野常寛『ラーメンと瞑想 単行本』ホーム社

07.大嶋栄子『傷はそこにある 交差する逆境・横断するケア』日本評論社

08.おおたとしまさ『子どもの体験 学びと格差 負の連鎖を断ち切るために』文春新書

09.織田淳太郎『知的障害者施設 潜入記』光文社新書

10.梶原阿貴『爆弾犯の娘』ブックマン社

11.門川紳一郎『ぼくのデフブラらいふ』ころから

12.金原ひとみ『YABUNONAKA―ヤブノナカ―』文藝春秋

13.雁屋優『マイノリティの「つながらない権利」――ひとりでも生存できる社会のために』明石書店

14.木村元彦『労組日本プロ野球選手会をつくった男たち』集英社インターナショナル

15.清田隆之『戻れないけど、生きるのだ 男らしさのゆくえ』太田出版

16.窪田新之助『対馬の海に沈む』集英社

17.ゲイル・ヨルデット『なぜ超一流選手がPKを外すのか サッカーに学ぶ究極のプレッシャー心理学』文藝春秋

18.久保田善丈『ダイバーシティ・ポリス宣言 学校を多様性仕様にするために』ころから

19.児玉聡『ミル『自由論』の歩き方 哲学古典授業』光文社新書

20.古怒田望人/いりや『クィア・レヴィナス』青土社

21.斎藤文彦『力道山──「プロレス神話」と戦後日本』岩波新書

22.周司あきら『男性学入門 そもそも男って何だっけ?』光文社新書

23.周司あきら『ラディカル・マスキュリズム:男とは何か』大月書店

24.白石あづさ『逃げ続けたら世界一周していました』岩波ジュニア新書

25.白石正明『ケアと編集』岩波新書

26.鈴木大介、石田月美、Tokin『好きで一緒になったから──死にたい私でも恋愛・結婚で生き延びる方法』晶文社

27.塚原久美『産む自由/産まない自由 「リプロの権利」をひもとく』集英社新書

28.勅使川原真衣『格差の"格"ってなんですか? 無自覚な能力主義と特権性』朝日新聞出版

29.勅使川原真衣『学歴社会は誰のため』PHP新書

30.勅使川原真衣『人生の「成功」について誰も語ってこなかったこと 仕事にすべてを奪われないために知っておきたい能力主義という社会の仕組み』KADOKAWA

31.勅使川原真衣『「働く」を問い直す 誰も取り残さない組織開発』日経BP

32.トマ・ピケティ、マイケル・サンデル『平等について、いま話したいこと』早川書房

33.難波優輝『物語化批判の哲学 〈わたしの人生〉を遊びなおすために』講談社現代新書

34.西倉実季『ルッキズムってなんだろう?: みんなで考える外見のこと』平凡社

35.野添文彬『大田昌秀―沖縄の苦悶を体現した学者政治家』中公新書

36.濱野ちひろ『無機的な恋人たち』KADOKAWA

37.林博史『沖縄戦 なぜ20万人が犠牲になったのか』集英社新書

38.藤井誠二『「殺された側」から「殺した側」へ、こころを伝えるということ』光文社新書 

39.古川直子『ポスト構造主義フェミニズムとは何だったのか』京都大学学術出版会

40.星野俊樹『とびこえる教室: フェミニズムと出会った僕が子どもたちと考えた「ふつう」』時事通信社

41.松井健人『大正教養主義の成立と末路―近代日本の教養幻想』晃洋書房

42.三島邦弘『出版という仕事』ちくまプリマー新書

43.村上靖彦『傷つきやすさと傷つけやすさ ケアと生きるスペースをめぐってある男性研究者が考えたこと』KADOKAWA

44.水上文『クィアのカナダ旅行記』柏書房

45.山根純佳、平山亮『 ケアする私の「しんどい」は、どこからくるのか: 見えないケア責任を語る言葉を紡ぐために』勁草書房

46.弓削尚子『入門 男らしさの歴史』ちくまプリマー新書

47.リック・ルービン、ニール・ストラウス『リック・ルービンの創作術』ジーンブックス

48.ロレッタ・ナポリオーニ『編むことは力──ひび割れた世界のなかで、私たちの生をつなぎあわせる』岩波書店

49.渡邊渚『透明を満たす』講談社

50.渡部宏樹『ファンたちの市民社会: あなたの「欲望」を深める10章』河出新書

2025年1月5日日曜日

2024年の60冊

 01.青木真兵『武器としての土着思考 僕たちが「資本の原理」から逃れて「移住との格闘」に希望を見出した理由』東洋経済新報社 

02.碧月はる『いつかみんなでごはんを 解離性同一性障害者の日常』柏書房

03.浅井春夫・遠藤まめた・染矢明日香・田代美江子・松岡宗嗣・水野哲夫(編著)『Q&A多様な性・トランスジェンダー・包括的性教育 バッシングに立ちむかう74問』大月書店

04.石田月美『まだ、うまく眠れない』文藝春秋

05.磯野真穂『コロナ禍と出会い直す 不要不急の人類学ノート』柏書房

06.今井悠介『体験格差』講談社現代新書

07.岩宮恵子『思春期心性とサブカルチャー 現代の臨床現場から見えてくるもの』遠見書房

08.大河内泰樹『国家はなぜ存在するのか ヘーゲル「法哲学」入門』NHKブックス

09.太田啓子・田中俊之『いばらの道の男の子たちへ ジェンダーレス時代の男の子育児論』光文社

10.岡野八代『ケアの倫理 フェミニズムの政治思想』岩波新書

11.頭木弘樹『口の立つやつが勝つってことでいいのか』青土社

12.カツセマサヒコ『ブルーマリッジ』新潮社

13.加藤宣子『〈会社〉と基地建設をめぐる旅』ころから

14.上川多実『〈寝た子〉なんているの? 見えづらい部落差別と私の日常』里山社

15.小島俊一『2028年 街から書店が消える日 本屋再生!識者30人からのメッセージ』プレジデント社

16.小峰ひずみ『悪口論 脅しと嘲笑に対抗する技術』百万年書房

17.最首悟『能力で人を分けなくなる日 いのちと価値のあいだ』創元社

18.斎藤環『イルカと否定神学 対話ごときでなぜ回復が起こるのか』医学書院

19.済東鉄腸『クソッタレな俺をマシにするための生活革命』左右社

20.櫻田宗久『ひとりの宇宙 新宿二丁目「星男」とクィアな私の物語』論創社

21.島田潤一郎『長い読書』みすず書房

22.秋峰善『夏葉社日記』秋月圓

23.スージー鈴木『サブカルサラリーマンになろう 人生をよくばる108の方法』東京ニュース通信社

24.スージー鈴木『中森明菜の音楽 1982-1991』辰巳出版

25.杉田俊介『糖尿病の哲学 弱さを生きる人のための〈心身の薬〉』作品社

26.高井ゆとり編『トランスジェンダーと性別変更 これまでとこれから』岩波ブックレット

27.高井ゆと里・周司あきら『トランスジェンダーQ&A 素朴な疑問が浮かんだら』青弓社

28.高橋幸・永田夏来『恋愛社会学 多様化する親密な関係に接近する』ナカニシヤ出版 

29.田家秀樹『80年代音楽ノート』ホーム社

30.田中みゆき『誰のためのアクセシビリティ? 障害のある人の経験と文化から考える』リトル・モア

31.玉野和志『町内会 コミュニティからみる日本近代』ちくま新書

32.玉袋筋太郎『美しく枯れる。』KADOKAWA

33.近内悠太『利他・ケア・傷の倫理学 「私」を生き直すための哲学』晶文社

34.千葉雅也『センスの哲学』文藝春秋

35.勅使川原真衣『職場で傷つく リーダーのための「傷つき」から始める組織開発』大和書房

36.勅使川原真衣(編著)『「これくらいできないと困るのはきみだよ」?』東洋館出版社

37.テレサ・ソーン、ノア・グリニ『じぶんであるっていいかんじ きみとジェンダーについての本』エトセトラブックス

38.どくさいスイッチ企画『殺す時間を殺すための時間』KADOKAWA

39.戸谷洋志『生きることは頼ること 「自己責任」から「弱い責任」へ』講談社現代新書

40.豊﨑由美『どうかしてました』ホーム社

41.ナージャ・トロコンニコワ『読書と暴動 プッシー・ライオットのアクティビズム入門』ソウ・スウィート・パブリッシング

42.中澤穣『中国共産党vsフェミニズム』ちくま新書

43.仲俣暁生『橋本治「再読」ノート』破船房

44.樋口直美・内門大丈『レビー小体型認知症とは何か 患者と医師が語りつくしてわかったこと』ちくま新書

45.pha『パーティーが終わって、中年が始まる』幻冬舎

46.Futuress『デザインはみんなのもの』Troublemakers

47.福嶋聡『明日、ぼくは店の棚からヘイト本を外せるだろうか』dZERO

48.藤高和輝『バトラー入門』ちくま新書

49.peco『My Life』祥伝社

50.マウンティングポリス『人生が整うマウンティング大全』技術評論社

51.松波めぐみ『「社会モデル」で考えるためのレッスン 障害者差別解消法と合理的配慮の理解と活用のために』生活書房

52.三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』集英社新書 

53.三宅大二郎・今徳はる香・神林麻衣・中村健『いちばんやさしいアロマンティックやアセクシュアルのこと』明石書店

54.宮台真司・近田春夫『聖と俗 対話による宮台真司クロニクル』ベストセラーズ

55.村中直人『「叱れば人は育つ」は幻想』PHP新書

56.藪下遊・髙坂康雅『「叱らない」が子どもを苦しめる』ちくまプリマー新書

57.養老孟司・中村桂子・池澤夏樹・春山慶彦『こどもを野に放て! AI時代に活きる知性の育て方』集英社

58.横道誠『なぜスナフキンは旅をし、ミイは他人を気にせず、ムーミン一家は水辺を好むのか』ホーム社

59.李琴峰『言霊の幸う国で』筑摩書房

60.林奕含『房思琪の初恋の楽園』白水社


※2023年12月刊は「ほぼ2024年刊」として含めました。

2024年1月8日月曜日

2023年の33冊

01.雨宮まみ『40歳が来る!』大和書房

02.有賀郁敏編『スポーツの近現代 その診断と批判』ナカニシヤ出版

03.池田賢市『学校で育むアナキズム』新泉社

04.いとうせいこう『「国境なき医師団」をもっと見に行く ガザ、西岸地区、アンマン、南スーダン、日本』集英社文庫

05.伊藤雄馬『ムラブリ 文字も暦も持たない狩猟採集民から言語学者が教わったこと』集英社インターナショナル

06.稲岡大志、森功次、長門裕介、朱喜哲『世界最先端の研究が教える すごい哲学』総合法令出版 ※

07.鵜塚健、後藤由耶『ヘイトクライムとは何か 連鎖する民族差別犯罪』角川新書

08.加藤寛幸『生命の旅、シエラレオネ』ホーム社

09.斎藤環『「自傷的自己愛」の精神分析』角川新書 ※ 

10.五月あかり、周司あきら『埋没した世界 トランスジェンダーふたりの往復書簡』明石書店

11.佐藤友則、島田潤一郎『本屋で待つ』夏葉社 ※

12.島田美子『おまえが決めるな! 東大で留学生が学ぶ《反=道徳》フェミニズム講義』白順社

13.杉田俊介『男が男を解放するために 非モテの品格・大幅増補改訂』Pヴァイン

14.スージー鈴木『幸福な退職 「その日」に向けた気持ちいい仕事術』新潮新書

15.鈴木大介『ネット右翼になった父』講談社現代新書

16.武田砂鉄『父ではありませんが 第三者として考える』集英社

17.竹信三恵子『女性不況サバイバル』岩波新書

18.橘玲『世界はなぜ地獄になるのか』小学館新書

19.谷川義浩、朱喜哲、杉谷和哉『ネガティヴ・ケイパビリティで生きる 答えを急がず立ち止まる力』さくら舎

20.田野大輔、小野寺拓也編『〈悪の凡庸さ〉を問い直す』大月書店

21.勅使川原真衣『「能力」の生きづらさをほぐす』 どく社 ※

22.友野健太郎『自称詞〈僕〉の歴史』河出新書

23.平野卿子『女ことばって何なのかしら? 「性別の美学」の日本語』河出新書

24.藤田早苗『武器としての国際人権 日本の貧困・報道・差別』集英社新書 ※

25.藤原章生『差別の教室』集英社新書

26.プチ鹿島『教養としてのアントニオ猪木』双葉社

27.古田徹也『謝罪論 謝るとは何をすることなのか』柏書房

28.古谷経衡『シニア右翼 日本の中高年はなぜ右傾化するのか』中公新書ラクレ

29.ペク・ソルフィ、ホン・スミン『魔法少女はなぜ世界を救えなかったのか?』晶文社

30.三牧聖子『Z世代のアメリカ』NHK出版新書

31.柳澤健『1985年のクラッシュ・ギャルズ』光文社未来ライブラリー

32.山口香『スポーツの価値』集英社新書

33.ヤン ヨンヒ『カメラを止めて書きます』クオン

※2022年12月刊は「ほぼ2023年刊」として含めました

2023年1月9日月曜日

2022年の32冊

01.東浩紀『忘却にあらがう 平成から令和へ』朝日新聞出版

02.和泉真澄ほか『私たちが声を上げるとき アメリカを変えた10の問い』集英社新書

03.稲田豊史『映画を早送りで観る人たち ファスト映画・ネタバレ コンテンツ消費の現在地』光文社新書

04.A・R・ホックシールド『タイムバンド 不機嫌な家庭、居心地がよい職場』ちくま学芸文庫、2022

05.江原由美子『持続するフェミニズムのために グローバリゼーションと「第二の近代」を生き抜く理論へ』有斐閣

06.尾崎ムギ子『女の答えはリングにある 女子プロレスラー10人に話を聞きに行って考えた「強さ」のこと』イースト・プレス

07.重田園江『ホモ・エコノミクス 「利己的人間」の思想史』ちくま新書

08.川瀬和也『ヘーゲル哲学に学ぶ 考え抜く力』光文社新書

09.栗田隆子『呻きから始まる 祈りと行動に関する24の手紙』新教出版社

10.小松原織香『当事者は嘘をつく』筑摩書房

11.小峰ひずみ『平成転向論 SEALDs 鷲田清一 谷川雁』講談社

12.古谷田奈月『フィールダー』集英社

13.澁谷智美、清田隆之編『どうして男はそうなんだろうか会議 いろいろ語り合って見えてきた「これからの男」のこと』筑摩書房

14.清水晶子『フェミニズムってなんですか?』文春新書

15.清水晶子、ハン・トンヒョン、飯野由里子『ポリティカル・コレクトネスからどこへ』有斐閣

16.ジュディ・コックス『女たちのレボリューション ロシア革命1905~1917』作品社

17.ショーン・フェイ『トランスジェンダー問題 議論は正義のために』明石書店

18.杉田俊介『男がつらい! 資本主義社会の「弱者男性」論』ワニブックスPLUS新書

19.スージー鈴木『桑田佳祐論』新潮新書

20.高井ゆと里『極限の思想 ハイデガー 世界内存在を生きる』講談社選書メチエ

21.高桑和巳『哲学で抵抗する』集英社新書

22.谷川嘉浩『鶴見俊輔の言葉と倫理 想像力、大衆文化、プラグマティズム』人文書院

23.戸谷洋志『スマートな悪 技術と暴力について』講談社

24.中村うさぎ、マツコ・デラックス『幸福幻想 うさぎとマツコの人生相談』毎日新聞出版

25.ヒオカ『死にそうだけど生きてます』CCCメディアハウス

26.藤高和輝『〈トラブル〉としてのフェミニズム 「とり乱させない抑圧」に抗して』青土社

27.三木那由他『グライス 理性の哲学 コミュニケーションから形而上学まで』勁草書房

28.三木那由他『会話を哲学する コミュニケーションとマニピュレーション』光文社新書

29.三木那由他『言葉の展望台』講談社

30.瑞作富郎『アントニオ猪木 闘魂60余年の軌跡』新潮新書

31.吉川浩満『哲学の門前』紀伊國屋書店

32.レジー『ファスト教養 10分で答えが欲しい人たち』集英社新書

2022年1月8日土曜日

2021年の35冊

01.アイリス・ゴットリープ『イラストで学ぶジェンダーのはなし-みんなと自分を理解するためのガイドブック』フィルムアート社

02.新井宏『“黄金の虎”と“爆弾小僧”と“暗闇の虎”』辰巳出版

03.池田喬『ハイデガー『存在と時間』を解き明かす』NHKブックス

04.井上輝子『日本のフェミニズム-150年の人と思想』有斐閣

05.岩渕功一編著『多様性との対話-ダイバーシティ推進が見えなくするもの』青弓社

06.おおたとしまさ『ルポ森のようちえん-SDGs時代の子育てスタイル』集英社新書

07.堅田香織里『生きるためのフェミニズム-パンとバラと反資本主義』タバブックス

08.河合香織『分水嶺-ドキュメント コロナ対策専門家会議』岩波書店

09.川瀬和也『全体論と一元論-ヘーゲル哲学体系の核心』晃洋書房

10.北村紗衣『批評の教室-チョウのように読み、ハチのように書く』ちくま新書

11.キム・ジナ『私は自分のパイを求めるだけであって人類を救いにきたわけじゃない』祥伝社

12.キム・ジヘ『差別はたいてい悪意のない人がする-見えない排除に気づくための10章』大月書店

13.周司あきら『トランス男性によるトランスジェンダー男性学』大月書店、2021

14.ジョルジャ・リープ『ファザー・フッド-アメリカで最も凶悪な街で「父」になること』晶文社

15.辛酸なめ子『新・人間関係のルール』光文社新書

16.杉田俊介『マジョリティ男性にとってまっとうさとは何か-#MeTooに加われない男たち』集英社新書

17.立川談志『酔人・田辺茂一伝』中公文庫

18.チェ・スンボム『私は男でフェミニストです』世界思想社

19.寺本浩司『音楽プロデューサーとは何か-浅川マキ、桑名正博、りりィ、南正人に弔鐘は鳴る』毎日新聞出版

20.鳥羽和久『おやときどきこども』ナナロク社

21.外山恒一『政治活動入門』百万年書房

22.永井玲衣『水中の哲学者たち』晶文社、2021

23.中村敏子『女性差別はどう作られてきたか』集英社新書

24.名執雅子『矯正という仕事-女性初の法務省矯正局長37年間の軌跡』小学館集英社プロダクション

25.橋本治『「原っぱ」という社会がほしい』河出新書

26.姫野桂『生きづらさにまみれて』晶文社

27.広瀬巌『パンデミックの倫理学-緊急時対応の倫理原則と新型コロナウイルス感染症』勁草書房

28.丸山里美『女性ホームレスとして生きる[増補新装版]-貧困と排除の社会学』世界思想社

29.溝井裕一『動物園・その歴史と冒険』中公新書ラクレ

30.美達大和『罪を償うということ-自ら獄死を選んだ無期懲役囚の覚悟』小学館新書

31.藪耕太郎『柔術狂時代-20世紀初頭アメリカにおける柔術ブームとその周辺』朝日選書

32.山本昭宏『戦後民主主義-現代日本を創った思想と文化』中公新書

33.山本圭『現代民主主義-指導者論から熟議、ポピュリズムまで』中公新書

34.リン・スタルスベルグ『私はいま自由なの?-男女平等世界一の国ノルウェーが直面した現実』柏書房

35.綿野恵太『みんな政治でバカになる』晶文社

※太字は特に印象に残ったベスト5です。
※ただし、間違いなく面白いと思われるが積読あるいは読みかけで挙げられなかった本も沢山あり、かつ配慮を含ませたくないので自分が関わっている著者さん関連はあえて外したことはお断りしておきます。

2021年1月6日水曜日

2020年の50冊

1.秋元康隆『意志の倫理学-カントに学ぶ善への勇気』月曜社
2.朝倉未来『強者の流儀』KADOKAWA 
3.東浩紀『ゲンロン戦記』中公新書ラクレ 
4.東浩紀『哲学の誤配』ゲンロン 
5.東浩紀編『ゲンロン11』ゲンロン 
6.石井妙子『女帝 小池百合子』文藝春秋 
7.伊藤邦武・山内史朗・中島隆博・納富信留・編『世界史の哲学6』ちくま新書 
8.伊藤邦武・山内史朗・中島隆博・納富信留・編『世界史の哲学8』ちくま新書 
9.宇野博幸『結果を出すための攻める検問・職務質問』春吉書房 
10.猫沢めろん『パパいや、めろん』講談社
11.太田啓子『これからの男たちへ-「男らしさ」から自由になるためのレッスン』大月書店
12.岡田育『ハジの多い人生』文春文庫 
13.小川善照『香港デモ戦記』集英社新書 
14.奥野克巳『モノも石も死者も生きている世界の民から人類学者が教わったこと』亜紀書房
15.小倉千加子『草むらにハイヒール-内から外への欲求』いそっぷ社 
16.オトフリート・ヘッフェ『自由の哲学-カントの実践理性批判』法政大学出版局 
17.加藤典洋『オレの東大物語 1966-1972』集英社 
18.金原ひとみ『パリの砂漠、東京の蜃気楼』ホーム社 
19.川端浩平『排外主義と在日コリアン-互いに「バカ」と呼び合う前に』晃洋書房 
20.岸政彦『NHK 100分de名著 ブルデュー ディスタンクシオン』NHK出版 
21.清田隆之『さよなら、俺たち』スタンド・ブックス 
22.小梅けいと/スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』KADOKAWA 
23.斎藤幸平『人新世の「資本論」』集英社新書 
24.佐藤直樹『なぜ日本人は世間と寝たがるのか-空気を読む家族(新装版)』春秋社 
25.品川哲彦『倫理学入門-アリストテレスから生殖技術、AIまで』中公新書 
26.白岩玄『たてがみを捨てたライオンたち』集英社文庫 
27.諏訪正樹、伝康晴ほか『「間合い」とは何か』春秋社 
28.全卓樹『銀河の片隅で 科学夜話』朝日出版社 
29.千坂恭二『哲学問答2020-ウイルス塹壕戦』現代書館 
30.ティム・インゴルド『人類学とは何か』亜紀書房 
31.テオドール・アドルノ『新たな極右主義の諸側面』堀之内出版 
32.ドミニク・レステル『肉食の哲学』左右社 
33.戸谷洋志、百木漠『漂泊のアーレント 戦場のヨナス-ふたりの二〇世紀 ふたつの旅路』慶應義塾大学出版会 
34.中野巽耀『私説UWF 中野巽耀自伝』辰巳出版 
35.中村淳彦、藤井達夫『日本が壊れる前に-「貧困」の現場から見えるネオリベの構造』亜紀書房 
36.西牟田靖『中国の「爆速」成長を歩く』イースト・プレス 
37.能勢桂介、小倉敏彦『未婚中年ひとりぼっち社会』イースト新書 
38.パイインターナショナル『ブックデザイン365』パイインターナショナル 
39.初沢亜利『東京、コロナ禍』柏書房 
40.原田曜平『Z世代-若者はなぜインスタ・TikTokにハマるのか?』光文社新書 
41.ぼくらの非モテ研究会『モテないけど生きてます-苦悩する男たちの当事者研究』青弓社
42.マルクス・ガブリエル、中島隆博『全体主義の克服』集英社新書 
43.三上智恵『証言 沖縄スパイ戦史』集英社新書 
44.ミシェル・クオ『パトリックと本を読む-絶望から立ち上がるための読書会』白水社 
45.メアリー・ビアード『舌を抜かれる女たち』晶文社 
46.森岡正博『生まれてこないほうが良かったの.か?-生命の哲学へ!』筑摩選書 
47.山本貴光、吉川浩満『その悩み、エピクテトスなら、こう言うね。-古代ローマの大賢人の教え』筑摩書房 
48.横田祐美子『脱ぎ去りの思考-バタイユにおける思考のエロティシズム』人文書院 
49.吉田豪『超・人間コク宝』コアマガジン 
50.吉田喜重『贖罪-ナチス副総統ルドルフ・ヘスの戦争』 

※積ん読本を除き、ある程度読んだ中で印象に残った本です。 
※著者の主張に共感しているとは限らず。違うなと思えても、それはそれで参考になったものはあげました。 
※太字はとくに実存を揺さぶられた本です。
※ちなみに、いつも最近出た本ばかり読んでいるわけではないです…(古典関連企画を通すため夏と秋は資料本ばかりかかりきりに)。

2020年5月9日土曜日

2019年の30冊

ついぞ去年は一度も投稿しませんでしたね。
いつも暮れになるとその年に出た本のベストをFacebookに挙げたりしていたのですが、じつはお付き合いのある/あった著者の本を入れなきゃとか、割とそうした配慮で迷うのです。
だから5冊限定に絞ったりなどするのですが、本当は面白かった本いっぱいあるんです。
なので、Facebookではボツにしましたが、2019年に出た本の中で面白かった30冊、ここに挙げておきます。
必ずしも内容に全面的に共感したり支持したりというものばかりでないですが、部分的にはそれがあって読んでよかったと思えたものです。
黒丸はその中でも特に個人的に強いインパクトがあった本です。


阿部泰尚『保護者のためのいじめ解決の教科書』
荒木優太『無責任の新体系』
荒木優太編著『在野研究ビギナーズ』
●磯野真穂『ダイエット幻想』
稲葉振一郎『AI時代の労働の哲学』
打越正行『ヤンキーと地元』
大澤真幸『社会学史』
梶谷懐・高口康太『幸福な監視国家・中国』
香山リカ『ヘイト・悪趣味・サブカルチャー 根本敬論』
木澤佐登志『ニック・ランドと新反動主義』
●木村元彦『13坪の本屋の奇跡』
清田隆之『よかれと思ってやったのに』
國分功一郎『原子力時代における哲学』
小林エリコ『わたしはなにも悪くない』
小谷野敦『哲学嫌い』
白石あづさ『佐々井秀嶺、インドに笑う』
先崎彰容『バッシング論』
高野てるみ『ココ・シャネルの言葉』
常見陽平『僕たちは育児のモヤモヤをもっと語っていいと思う』
ナイツ『言い訳』
那嵯涼介『最強の系譜』
●濱野ちひろ『聖なるズー』
●福留崇広『さよならムーンサルトプレス』
古田徹也『不道徳的倫理学講義』
ブレイディみかこ『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』
●毎日新聞取材班『強制不妊』
松山正訓『いのちは輝く』
マルクス・ガブリエル他『未来への大分岐』
マレーナ&ベアタ・エルンマン『グレタ たったひとりのストライキ』
綿野恵太『「差別はいけない」とみんないうけれど。』

2018年1月22日月曜日

西部邁のこと

父親の影響もあり、また多少は寮とか周囲の環境もあり、特に政治思想に強い関心も知識もなかったけれども、それまでの自分は薄いサヨクというか、薄っぺらいサヨクではあった。

それが変わったのは、大学2年生の冬。90年8月にイラクがクウェートに侵攻し、91年1月に湾岸戦争ぼっ発。
それまで朝生は好きでよく見ていたが、事態の進行に伴い、薄っぺらいサヨクの考えも揺らいでいった。
「アメリカのイラク攻撃はいけないと言うが、イラクに侵略されたクウェートの不公正な状態はそのままでいいっていうの?」

大学2年生の冬から、突然、貪るように本を読み始めた。特に、思想とかに強い関心を抱いたのは、間違いなく西部邁の影響だった。
大学3年生の春から、授業が急に興味が出てきて、いつも前のほうに座って授業を聞いた。大学4年生になったら、だいたい単位は取れているので普通の学生はあまり学校に行かなくなるものだが、わたしの場合は必要以上に授業を履修した。そして、卒業後まで勝手に大学に行って(当時いうところの「ニセ学生」)、勉強した。

大学のサークルの先輩に、何になりたいかという話で「(朝生に出ているような)評論家になりたい」とか言ったのが(大学生なので許してください…)、ふだん温厚な先輩のどこか癇に障ったらしく、何か議論をふっかけられたのも微妙な思い出。
いや、時に西部っぽさ、栗本慎一郎っぽい口真似をしたことは、一度や二度ではなかったか(大学生なので許してください…)。

大学卒業後は1年あまり、ピースボートに出入りしたり、ニセ学生で幾つかの大学に潜り込んだりなどプラプラして、そのなかでサンボで知り合いでもあった鈴木邦男さんのゼミナールの手伝いなんかもやった。
たしか高田馬場のシチズンプラザあたりで、鈴木さんが呼びたい人を呼んでトークをやるもので、あるとき西部さんを呼ぶというので俄然テンションが上がった。改めて、西部さんの本を読み直し、何か突っ込みは出来ないかと研究したりした。

当時ピースボートの事務所で、思想についても通じている活動家タイプの古株に、西部の本を全部読んで研究したということを言ったら、「(批判するのに)そこまで全部読む必要なんかあるの?」という反応が返ってきたことを覚えている。

細かいことは忘れたが、わたしが用意した質問というのは、伝統が大事だというのはそれが歴史の風雪を耐えてきた知恵であるからで、それを人間の思いつきのような頼りない理性なんぞで簡単に否定できるものか、というのはわかるが、一方で西部先生は、伝統の中にも悪いものはあり必ずしも全部守らなきゃいけないわけではないということも同時に言っておられているので、その伝統の中の良いもの/悪いものを腑分けするのはやっぱり人間の理性頼りではないか? みたいな内容だった。

西部さんは正面から答えず、そうしたことも今度創刊する『発言者』を読んでくれ、というような感じだった。わたしも、どこか悪いこと聞いちゃったかなという気持ちになった。Wikiを見ると、『発言者』創刊が94年4月、準備号が93年10月だから、それぐらいの時期の話。

その二次会が高田馬場の喫茶店であって、唯一覚えている光景は鈴木さんがパリ人肉事件の佐川クンを目の前に連れてきて紹介しようとしていたところ、西部さんが「いや、挨拶したくない」「知り合いたくない」と拒否したことだった。目の前にその人が居ながら、断固たる態度だった。佐川さんは何も言わずに俯いていた。

94年10月からわたしは格闘技雑誌の仕事に入って、そちらの世界から少し縁遠くなった。
また、90年代半ば過ぎると、戦後民主主義とか進歩主義とか護憲派に対する批判という意味では鋭い切り口を保っていたものの、援助交際やオウムなど複雑な事象に対しては西部さんはじめとする「保守」の言説にあまり魅力を感じなくなっていった、と今にして思う。

それで、社会学者・宮台真司の台頭である。朝生でも存在感を強めていき、わたしも応援していた。
97年7月4日放送「田原総一郎の意義あり」で、西部と宮台が対決、途中で西部が退席してしまった場面はリアルタイムで見ていたし、しばらくビデオテープに残していた。当時はすでに宮台のほうを応援していたと思う。

そして、西部さんの本も手に取ることはなくなっていった。

それから十数年が経ち。
MX「5時に夢中!」を一時期よく観ていた時、その前にやっていた「西部邁ゼミナール」をチラ見したことを除けば、ふたたび、西部さんの言説に接近したのは2016年春。
安保法制の議論が盛り上がっていた頃の2016年5月5日、BSフジ「プライムニュース」で元・法制局長官が出演し、「9条と自衛と侵略の境界線」というテーマで西部さんの話を2時間近くしっかり拝聴した。
仕事の企画に関わるテーマだったし、もちろん個人的な関心があったから。
議論は噛み合わず、じつは自分でもびっくりするほど西部さんにまったく共感しなかった。いま議会で議論されている論点とは別個のところで、得意の語源に遡っての話法、そもそも人間の本性とは……的な話にはついていけなかった。

同じころ、『教養としての戦後平和論』という本を編集中に西部さんのことも言及されているので、参考までに古本で『私の憲法論』を買い直してみたり。
一年前に、読書会でオルテガをやるので、参考までに文庫になった西部の『大衆への反逆』を買い直してみたり。
どこか期待しながら、でも、いずれも今の自分に響いてくるものはなかった。

去年夏に出た『ファシスタたらんとした者』に、「遺書」だとか最後の本のような惹句が出たので、軽く立ち読みしたら、もう思うように手で書けなくなったのだという。
ああ、自分は編集者としては、ついぞ交わること無いままだったな、という感慨を覚えた。仕方ないことだ。

かつて自分が熱心な読者で、そこから離れてしばらくしたら、急な訃報にあってうろたえるという経験は、池田晶子さんの時にもあった(池田先生の場合は、本は作れなかったが、著者と編集者としての交わりは多少あった)。
多少の負い目。
いや、最初はそういう感じも確かにあったのだが、それ以上に「自殺」という選択についての思い。
言論は虚しい、自分の人生は無駄だった。……なのか、ほんとうに?

どんどん雪が降っている。
「俺に是非を説くな 激しき雪が好き」
野村秋介も自殺だった。

思想に殉じるような人たちは、もうこれからほとんど出てこないだろう。■


2017年11月15日水曜日

雨宮まみさん命日

雨宮まみさんの命日。
1年前の深夜に柳澤さんから訃報のメールをもらい、それを翌朝の通勤電車で開いた時の衝撃といったら。
どういう理由だったか全く記憶にないのだが、なぜか鞄の中には雨宮さんに寄稿して頂き、その中の言葉を帯のいちばん大きなキャッチにした『井田真木子と女子プロレスの時代』が入っていた。
その1年前に出したあんな分厚くて重い本をなぜその日に持っていたのだろう。
通勤電車の中で雨宮さんが亡くなったということをある著者さんにメールで知らせたら、ちょうど雑誌連載の締切日で雨宮さんに触れようとしていたところでとりやめた、なんてこともあった。
まだ死因も分からない時に、不謹慎に映るかもということで。
当日午後、お別れ会という名の葬儀に伺った時の心象風景。
そうだ、その1か月前には著者さんであるなべおさみさんの愛妻、笹るみ子さんをご自宅で見送っていたのだ。
みんな死んでいくなあ、とこういう時は登場人物がみんな死ぬイデオンが昔からよぎる。
じつは本日搬入の本の前書で、北原みのりさんが雨宮さんに触れているのだが、この本の搬入日と雨宮さんの命日と重なったのもただの偶然。
そういえばと、『井田真木子と女子プロレスの時代』刊行記念でやった雨宮さんと柳澤さんのトークイベントの音声を今日は引き出して聞いている。
「女性のライター死ぬんですよね。若くして亡くなる方が本当に多くて」
なんて雨宮さん、普通に言っている。
いや、井田さんのように貴方も。ぬけぬけとさあ。絶句。

2015年6月17日水曜日

ファブリシオ・ヴェウドゥムのこと

6月13日、UFC新チャンピオンとなったファブリシオ・ヴェウドゥムのこと。
こういう裏話的なことは書かないのだが、もうワタシも業界人でもないので、たまには。

昔、ミルコのマネジャーをやっていた今井さんから、「誰か寝技の強い選手を知らない?」と聞かれた。
当時、ワタシはフリーのライター・編集者として『柔術王』(2004年3月)というムックをつくったばかり。ブラジリアン柔術の黒帯重量級世界王者であるヴェウドゥムの名を、今井さんに挙げてみた。
ムンジアル(世界選手権)最高3位のノゲイラよりも実績的には上だし、重量級の中でもノゲイラのような手足の長さと柔らかい寝技を持つタイプがよいと思ったからだ。
その時のヴェウドゥムは、マイナーなMMAイベントに出始めてはいたものの、まだ柔術やアブダビコンバットで頂点を極めていた時期にあって、本格的にMMAに取り組む前であった。

今井さんによると、それまでミルコの寝技パートナーとして連れてきた人間が、ことごとく役立たなかった模様。
そのうちの一人は、日本とも縁のあったオランダ人ファイターだったが、ミルコを極めることはできなかったそうだ。
ワタシが、ヴェウドゥムの話をしたとき、「今までみんなミルコには……」とやや懐疑的だったが、今井さんはブラジリアン柔術の「世界」を知らなかった。
「そんな奴らと、ブラジリアン柔術の本当のトップを比べんなよ…」と思ったことは覚えている。

そしたら、今井さんは本当にミルコのためにヴェウドゥムを呼んだので、驚いた。
その決断と行動の速さに、すごいと思った。

実際、今までのスパーリングパートナーとは比べ物にならないほど、ヴェウドゥムは優秀だった。当たり前だが。そのことに今井さんは喜んでいた。
「ミルコのスパーリングパートナー」を経て、2005年PRIDE初参戦したヴェウドゥムのその後は、ファン御承知の通り。

今井さんからは、一時期、何かと連絡をくれたり相談を受けたりしていた(基本的に、業界人とは距離を置くワタシにとっては珍しい)。
たしかレオジーニョをMMAデビューさせるという話も、当時出ていた。

その後、ヴェウドゥムには「ガチ!マガジン」か何かで取材し、じつはあなたのことをスパーリングパートナーに薦めて……、と明かして、盛り上がったこともあった。

ミルコのスパーリングパートナーになって10年か。
人にはいろんな成功の仕方があるものである。■

2015年6月11日木曜日

「G2」最終号を読んで、もやもや。

大方、そこで述べられている意見に「反対」ではないのに、まったく「共感」できない原稿というのもある

これで休刊となる「G2」巻頭にある、「ノンフィクションを読まない24歳web編集者がノンフィクション・メディアの未来について考えてみた」という記事(リンクは一部抜粋)。

もやもやした数日を過ごしたので、久々に長いものを書いてみます。

この24歳web編集者の主張は、わかりやすいといえば、わかりやすい。
以下、この方の現状把握がわかる引用。

「ノンフィクション誌は人通りのまったくないところに構えた高級レストランのようなものである。具体的な姿勢の違いを挙げるとすると、webメディアの基本としては『読者目線』が徹底している」

「ノンフィクション・メディアの課題を整理すると大きく3つあると思う。読者が求めているコンテンツを提供できていなかった(かもしれない)こと、読者がいる場所を見つける(届ける)ことができなかったこと、そして『G2』のようにコスト面から考慮すると持続可能性が無いことだ」

「『ノンフィクション』について考える際に、『忙しい読者はそもそも長い記事を求めているのか』と問う必要はありそうだ」

しかし、この方は、ノンフィクションを「コンテンツ」というフラットな言葉で呼ぶんだなあ……。それはそれで一つの立場。
ただ、ワタシの旧知のノンフィクションライターに、もし「○○さんのコンテンツは……」とでも言おうものなら、張り倒されかねない。
そういう人もいることは知っておいたほうがいい。

先に引用した現状把握をもって、ノンフィクションの収益化のために、著者がイチ一押しするのが、「オンライン有料サロン」。

「わかりやすく表現すれば、「参加者の顔が見えるファンクラブ」といったところだろう。月々一定額(多くの場合1000~2000円)を支払えばフェイスブックの非公開グループに参加できるという仕組みだ。そのグループ参加者らでオンラインでの交流を図ったり、オフラインでの会合(オフ会)を開催したり、ネットだけでなくリアルのコミュニティを形成している」

つまりそのサロンにおいては、「コミュニケーションをするためにコンテンツを消費する」という形で、ノンフィクションは消費されるのだ。

引き続き、引用。
「著者目線ではなく、あくまでも読者目線――この視点が現在のノンフィクション・メディアには足りていないように思う」

「『コミュニケーションの設計』という、これからの編集者の大きな仕事になる領域は、ノンフィクションの可能性にもつながる大事なポイントだろう」

ここまで読んで、反感も覚えた方もいるだろう。
ただ、この24歳web編集者の、何かしら前向きな「情熱」は感じとることができる。

「必要なのは、成功事例ではなく、失敗事例であることは疑いない。ただただ手数が足りない。あとは意志と情熱の問題だけだと思うのだが」

そして、最後は、こんなアジテートで締めくくられる。
「Webの時代、スマホ時代のノンフィクションとはなにか。日々、紙雑誌の編集をしながらも、そんなことを考え抜いているノンフィクションの編集者はどれだけいるのか。誇りを持ち、プライドを捨てる。失敗から未来を見つけ、対象読者が求めているものをしっかり届ける、新しい時代に合ったノンフィクション・メディアを発明することがとにかく急務なのだ。とにかく手数が必要なのだ」

ワタシは、個人的には、こうした「仕組み」の話、マネタイズ、マーケティングの話は重要だと思っている。
それは、自分に欠けていて、もっと磨かないといけないところであるから。
なので、こういった話は、イチ編集者としては、勉強にはなります。

旧来のノンフィクション雑誌が、マーケティングの視点で駄目なことも、それはきっとそうなのだろう。

しかし、ここには「中身」の話がない。
中身の種類や質も問わず、「届け方」の話しかない。
こんなノンフィクションがよいとか素晴らしいとか、「コンテンツ」自体の話は何もしなくてよいのだろうか。

旧来の(意識が低い?)ノンフィクション雑誌の編集者が、24歳web編集者の原稿を読んでも、「……で?」と途方に暮れるのではないだろうか。
(「オンライン有料サロン」の可能性ぐらいは、調べるかもしれないが)

「Webの時代、スマホ時代のノンフィクションとはなにか。日々、紙雑誌の編集をしながらも、そんなことを考え抜いているノンフィクションの編集者はどれだけいるのか」と大上段から他人に問いかけるならば、そもそも自分は「ノンフィクション」そのものについて、どこまで問いを深く掘り下げて考えているのか。

いや、野暮な話をしているのは重々承知している。
内容の話と、お金の話、それぞれこちらが大事だと主張しても、お互いに「わかっていないね」という顔をして去っていくだけ。

どちらも大事である。
どちらも大事なのに、ここにはその両者を「つなぐ」言葉がまったくない。いや、つなぐ意志がない。
つなぐ言葉が、24歳web編集者流にいえば、「ただただ、足りない」。
それこそ、旧来のノンフィクション雑誌の人に、最も求められているはずなのに。

しかし、それも当たり前の話。
「ノンフィクションを読まない24歳web編集者」だからである。
無い物ねだりは、いけない。
自分に必要なことは、自分で考えなければならない。

とはいえ、この「つなぐ」言葉が欠如している自らの感性に、24歳web編集者がどこまで「自覚」的なのかは、ちょっと知りたいところだ。

「若いうちに左翼に傾倒しない者は情熱が足りない。大人になっても左翼に傾倒している者は知能が足りない」という有名な言葉を、時折思い出す。

ノンフィクションを通過せずに、大人になってしまった編集者の感性。こういう人を、ワタシは信用しない。

同じ「G2」最終号に、『井田真木子著作撰集』を刊行した里山社・清田麻衣子さんの原稿が収められている。
清田さんは、24歳web編集者の対極にある。

この編集者と井田真木子の、そうでしかありえない、そうでしか生きられないという「切実さ」。
自分の好きな本ばかりつくれるわけではないけども、ワタシもワタシなりに、作家さんと自分の「切実さ」に衝き動かされたノンフィクションを、今つくっているところです。

2015年4月20日月曜日

1995年4月20日

あの日からちょうど20年。拙文掲載のゴン格誌面(2009年2月号)をアップします。


2014年2月8日土曜日

怒りをうたえ

ぎょえー、一年ぶりの更新か。

よく柔術で「力を抜け」なんて言われるけれども、ワタシは力を抜くことよりも、力が相手にちゃんと伝わっているかどうかのほうが遥かに重要だと思っていて。
それは持論で、話せば長くなるので、ここでは省略するけれども。
いや、究極的には同じことなんだと思うけれども、視点の置き方はやはり違いますよね。

ワタシは出版の仕事をしているが、著者とタイトルをはじめカバー周りで意見が異なることは、同業者ならよくあると思う。
著者は、自分の書いた内容や考えを、そのままカバー周りに反映させたがる。
編集者は、それが相手(一般読者、想定読者)が手に取ってどう感じるか、そこにいったん意識を移して、そこからフィードバックして考える。
どう手に取らせるか、興味をひかせるか、そこから考える。
上の「力」の話と、少し似てますね。
伝えるってこと。

なんでこんなこと急に言うのかと思ったら、今日amazonに注文していた『てっちゃん ハンセン病に感謝した詩人』が届いていて。
ハンセン病の詩人・故桜井哲夫さんのフォトドキュメンタリー。
昔、この人のことが書かれたノンフィクション『しがまっこ溶けた』を読み、とんでもない衝撃と感動を覚えたのだが、この本を貸してくれた友人のタカコちゃんになんか怒ったのだ。
こんないい本なのに、このカバー周りはなんだ、この帯のキャッチはなんだ、人に手を取らせるということをこの編集者はもっと真剣に考えるべきだった、みたいな。
目が点になっていたが、最後は共感してくれたような。

「怒り」といえば、実は(というほど意外でもないか)ワタシは怒りっぽいとこがある。
そのことは自分の中の一つのテーマであった。。
なので、このたびシステマの北川貴英さんに怒りをテーマにした本を書いてもらったのだが、それは自分が読みたいものであり、学びたいものでもあった。

このブログを書こうと思って、急に思い出した。
『怒りの方法』という本について、八年前、こんな書評を書いていた。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20060605/103618/?rt=nocnt
〆の言葉は、少し大げさに書いた。ほんとです(笑)。
まあずっと自分にとってのテーマだった、という一つの証ですな。

なので、先週北川さんの出版記念イベントでの、中井祐樹さんの言葉のいくつかが胸を離れない。
詳しいことは書きません。
しかし、あの底抜けのリベラリズム、ぱねえと心底思ったのである。
中井祐樹、恐るべし。
そんな中井さんの本も製作中です。お楽しみに!

2013年2月21日木曜日

あるサッカーライターの体罰論について

「迷っています。スポーツではなく武道だった柔道にも、完全なるスポーツの論理を持ち込んでいいものなのか?」
http://bylines.news.yahoo.co.jp/kanekotatsuhito/20130201-00023301/
金子達仁氏のコラムが話題を呼んでいるようです。
個人的にもいろいろ思うところがありました。
*

【そろそろ体罰問題から離れてオリンピックの招致活動について触れようと思っていたのですが、またしても大騒動が勃発してしまいました。柔道の問題です。ここまで騒ぎが大きくなってしまうと、触れないわけにはいかんでしょ。
改めて言うまでもないことですが、大前提として、わたしはスポーツに於ける体罰に反対です。ていうか、スポーツに罰を持ち込むという発想自体が間違っていると思ってもいます。
じゃ、なぜ反対なのか。
体罰くらってサッカーが、バスケットが、ゴルフがうまくなるとは思わないから──突き詰めると、この一点に尽きるわけです。】

→“短期的”には、体罰で競技が上手くなることはありえます。
それは柔道日本代表のようなトップアスリートにではなく、
もう少しレベルの低い中学高校の部活の話です。
ただ、それは生徒のモチベーションのマネジメントを「恐怖」において実行しただけで、
生徒の資質や環境にかなり委ねられ、効果はあっても限定的です。
本来は「殴らなくても強くなった」し、「殴っても強くなった」のが実態だと思います。


【では、うまくなるのなら体罰はあっていいのか。
わたしの答はイエス、です。
殴られることが、罵られることが、自分の技量であったりチーム力の向上に確実につながるというのであれば、どうぞ殴ってください、罵ってください。勝ちたくて、強くなりたくてどうしようもない自分にさらなる力を与えてくれるなら、ビンタだろうがグーだろうが言葉の暴力だろうが、どうぞどうぞ。メッシやコービー・ブライアントやタイガー・ウッズも過酷な体罰に耐えたからこそいまがあるっていうんなら、わたしは体罰を認めます。愛情なんかなくたっていい。うまくなれるなら。勝てるなら。ハハッ。
もちろん、殴られてうまくなったサッカー選手なんかいなかったし、これからもいるわけがない。なので、体罰はくだらん。無意味。卑怯。スポーツに体罰を持ち込む指導者には侮蔑を。そう主張してもきました。】

→上手くならないから体罰はくだらん。
でも、それは裏返しの、体罰を肯定する論理そのもの。
強くなっても、体罰は駄目なのです。


【ただ、ずっと迷ってたし、いまも迷ってることがあります。
もともとはスポーツではなく武道だった柔道にも、完全なるスポーツの論理を持ち込んでいいものなのか。】

→この問い自体は、興味深い問題設定です。
ただ、残念なことにこの議論は、この先深められていません。


【以前、亡くなった格闘家アンディ・フグの練習について書きました。殺人的で非科学的に見えた彼の練習は、しかし、本人に言わせると必要なこと、だったのです。なぜならば、空手とは痛みに耐える競技でもあるから──。スポーツのトレーニングに慣れた人間の目からすると、彼がやっているのは罰そのものでした。】

→何が「殺人的で非科学的」だったのでしょうか。
(以前書いたという記事も、具体的に何も書かれていませんでした)
そこがまず元格闘技記者としては、引っかかるところです。
門外漢のライターにとっては非科学的な練習に映ったということしか、
この文章からはわかりません。
事実として、それが「殺人的」な練習「量」だったとしても、
もちろんアンディにとって、強くなるには普通に「合理的」な練習メニューだったはずです。
間違った練習方法をいくら積み重ねても、アンディのような一流にはなれません。


【柔道は、痛みに耐えなくていいのでしょうか。
メッシやブライアントやウッズが人生において一度もコーチから体罰を食らったことがないのは確実ですが、過去に世界一になった日本の柔道家たちは、体罰を受けなかったのでしょうか。受けなかったから、世界一になれたのでしょうか(ちなみに、1月31日付の朝日新聞で、山下泰裕さんは「自分は指導者に恵まれたために体罰は受けなかった」といった内容のコメントをしています。意味深です)。
柔道がオリンピック競技になったのは、東京でのオリンピック開催を機に、競技の国際化を意識した柔道関係者がそれを強く望んだから、でもありました。つまり、柔道はスポーツであると方向づけたのは、ほかならぬ柔道関係者であったわけです。である以上、反スポーツ的な体罰は許されないというのが当然の流れ。それはわかる。よーくわかる。】

→柔道のスポーツ化への流れは、その端緒を東京五輪開催に求めるよりも、
敗戦後、GHQによる武道禁止を解除するために、
スポーツとしての姿を前面に打ち出していった経緯を論じるのが普通です。


【でも、そもそもは護身術であり武術だった競技を、欧米生まれのスポーツと同列に論じていいもんなんでしょうか。】

→はい、その問題設定自体はよいと思います。
なので、その先を。


【楽しいからやる。それがスポーツの根っこ。ずっと言い続けてきたことです。
柔道って、剣道って、空手って、初めてやってみる子供にとって楽しいことでしょうか。】

→楽しい子は、普通にいますよ。
道場に来てください。


【スポーツは勝つから楽しい。勝つことにムキになって、同じようにムキになってぶつかってくる相手を倒したらなお楽しい。勝利を目指す。それこそがスポーツをやる上でのモチベーションでありエネルギー。じゃあ、武道はどうなのか。勝利はもちろん大切ですが、それ以上に、試練に立ち向かう姿勢であったり、苦境を打開する気概のようなものが重要視されるのではないでしょうか。だから、子供にとっては楽しくなくても、親がやらせる。将来のために、やらせる。
柔道には受け身というものがあります。初心者はたいてい、これから始めます。サッカーとバスケットと草野球しかやったことのない人間からすると、これ、ちょっと不思議です。
だって、受け身って、要は負け方の訓練でしょ。いかに負けた際のダメージを少なくするか。すべてのエネルギーを勝つために、あるいは負けないために振り分けるのがスポーツの常識だとすると、これ、とんでもなくイレギュラーなトレーニングだと思うのです。】

→そこが、多くのスポーツと、スポーツの中でも「格闘技」に分類されるものを隔てるところなのです。
それが、議論の出発点だと思うのですがね。
サッカーでドリブルで抜かれても、パスを通されても、シュートを決められても、別に怪我はしません。
柔道で投げられて、受け身を取らなければ怪我をします。
単に勝負に負けるだけではなく、怪我をしたらその競技を当分楽しめませんよね。
また、逆に相手をそのつど怪我させても、練習が成り立ちませんよね。
なので、スポーツとしてとらえても、受け身の習得は不思議なことではないのです。


【同じ格闘技でも、欧米で生まれたものには「ガードの仕方」はあっても「ノックダウンの仕方」とか「フォールのされ方」なんてトレーニングはないわけですし。】

→ここは金子さん自身が「負け方」という言葉に引っ張られ混乱していますが
(あるいは意図的に話をズラしていますが)
受け身の話に戻すと、欧米で生まれたレスリングにも受け身はありますよ。


【誰だって、負けて楽しいわけがない。にもかかわらず、競技を始めた最初の段階でまず取り組むのが「負け方」。この時点で、柔道という武道にとって一番大切なのは勝利じゃないんですよっていうのが証明されてると思うのですが、にもかかわらず、柔道はスポーツの世界に入ることを望み、それが受け入れられてしまった。】

→受け身を学ぶことが、その競技にとって出発点ということで、
もちろん競技としては勝つためにプレイするものですから、
柔道がスポーツ競技であることとは別に矛盾はしません。


【日本の柔道は1本にこだわる、と言われます。】

→こまかなことですが(ライターさんなので求めますが)、ここは「一本」と表記してください。

【これだって、考えてみればまるでスポーツ的じゃない。「勝つためにどうするか」を考えるのがスポーツ的な思考だとすると、日本人の柔道に対する考え方は、いまもって「いかにして勝つか」という部分が色濃く残っています。目的と同じぐらい、時には目的よりも過程を重視する武道ならではの思考です。だから、スポーツ的な思考から編み出された、有効や効果でポイントを取ったらあとは逃げ回ってしまえ……というスタイルがどうもしっくりこない。一方で、自分たちの国が編み出した競技である以上、勝たなければいけないという思いもあって、これはもう、完全にスポーツ的な思考。つまりは、21世紀に入ってもなお、武道とスポーツの整理がつかず、ちゃんぽん状態のまま放置されてきたのが日本人にとっての柔道だと思います。】

→はい、この問題設定自体はよいのですが、その先を。

【先日、スポニチのコラムに「日本人はスポーツをやることによって理不尽さへの耐性を獲得しようとしている」と書きました。スポーツをやっていれば根性がつく。スポーツをやっていれば実社会にでても役に立つ。だから1年生は黙々とグラウンド整備をするし、野球部の少年たちは礼儀作法を徹底して仕込まれる。
なぜこうなったのか。日本に武道があったから、です。
騒動が発覚後、つるし上げに近い形での記者会見に出席した園田監督は、記者からの「(体罰をふるうという行為は)あなたが特殊だったのか。それとも柔道界では一般的なことだったのか」という問いに対し、「わたし以外の人間がやっているのを見たことがないので、わたしが特殊だったのでしょう」と答えました。
これって、理不尽さへの耐性がなければできない答、でしょ。】

→武道が礼儀作法を徹底して仕込まれるということと、
理不尽さへの耐性が結びつくというのは、認めたとしても。
ただし、理不尽さ=体罰ではありませんよね?
じつは体罰は理不尽どころか、当事者にとっては、きわめてわかりやすい論理ではありませんか?


【すべての罪を自分一人が引っ被り、回りに迷惑をかけまいとする。この発想が、欧米では圧倒的に少数派のはず。長く武道に親しんできた、日本人ならではの考え方。で、「いくらなんでも女性に手をあげるのはいかんだろ」と思いつつ、記者会見での潔さには胸を打たれてる自分がいたりもするわけです(書いてみて気づいたのですが、相手がオトコならばやむをえんかなという思いが自分の根っこにはあるようです)。
柔道だろうがなんだろうがおしなべて体罰はけしからん、という声が主流派になりつつあります。バスケットボールというスポーツで起きた、体罰に起因する自殺事件と、武道でもあった柔道で起きた騒動が、ほとんど同じ重さで語られています。柔道界自らがスポーツたらんと望んだ以上、仕方のないことだとはいえ、個人的には釈然としないものも残ります。
日本人が柔道を、あるいは武道を完全なスポーツとしてとらえるようになった時、理不尽さへの耐性はまだ残っているのでしょうか。そもそも、そんなもの、必要ないのでしょうか。】

→武道には体罰が必要という前提で書いていますが、それは本当でしょうか。
柔「術」を柔「道」としてまとめあげ、「精力善用」「自他共栄」を唱えた
嘉納治五郎の著作集のどこに体罰を肯定する文言があるのでしょうか。


【つるし上げの記者会見に出席する。自分だけが割を食うのは納得がいかんと、体罰をしていた仲間の名前を列挙する……このままの流れでいくと、そういう日本人が多数派となる時代になっていくのではないか。それで、いいのか。 迷ってます。】

→自分だけ罪を被らずに仲間の名前を挙げていく……
これは武道文化とスポーツ文化の話でしょうか?
そうは思えません。
さまざまなレベルの話を混同して「迷って」書いておられるようですが、
金子さまにおきましては、山口香先生が朝日新聞に語ったインタビュー記事や、
松原隆一郎先生と溝口紀子先生の対談(ゴング格闘技4月号)を
ご覧になることを強くおすすめします。

■

2012年11月24日土曜日

キャッチよ永遠に

キャッチとは、客引きのこと。
外を歩いている人に声をかけ、値段交渉をして、自分の店に連れてくること……をやっていました。
場所は、歌舞伎町のコマ劇場(当時)前。
店は、T会館のディスコ「G」(以下イニシャルです)。
時は、バブル時代末期、1989年8月~1991年2月ぐらい(大学1年夏~大学2年冬)。
キャッチとしては、長いほうかと思われ。きつくて、すぐ辞める人も珍しくないので。
このブログだと、「柔術、どれぐらいやってるんですか?」8,9あたりの時期にあたる。


○T会館の基本情報

・3F「Z」、4F「G」、6F「C」、7F「g」が入っているディスコ・ビル。

・Gがユーロビート中心で客層が一番若い(中高生中心)。Gもユーロ中心だが、Gよりは微妙に年齢層が高め。Zはブラック中心。Cもブラック中心だが、微妙に年齢層高め。

・当時はブラックが流行はじめ。ユーロはちょっと古い感じ。Gは一番ダサい存在、店のグレード的にも一番低い。店のグレード的には、G
・どの店にも、一人は「なぜこいつが黒服なの?」というルックスの人間がいた(Gはワタシ)。しかし、案外とそういう人間も客引きでは売上アベレージを維持し、比較的長く続くタイプが多かったように思える。基本、それまで女性に縁が多いタイプではなかったから?

・意外に?武闘派多し。極真経験者が何人かいた。

・一日でも入店が早いほうが「先輩」。年齢よりも、先輩か後輩かの上限関係。ただし、そのプレゼンスは先輩でも時折脅かされる。私もつけ上がってきた後輩と、喧嘩寸前になった記憶有り(先輩が止めて収まり、とりあえず仲直りしたが、そいつは少しして辞めた)。

・店を辞めるときは、基本「バックレ」。普通に辞めさせてくれなかったと思う。辞めた後に店に遊びに来る奴、あるいは堂々とキャッチの前を歩く奴は、ボコボコにされたと思う(あるいはそういうものだと、こちら側が思っていただけかも)。

・黒服は店の物もあるが、基本ダサいので自前で用意が普通。シャツ、靴も自前。

・ビルの入り口に、大きなスピーカー置いて宣伝テープを流す。「T会館、ディスコビルディング~、3階Z、4階G……」。偉そうなロカビリーっぽいオジサンがテープ代わりにマイクを握って直接喋ることも。嫌な奴だった。マイク持っての宣伝は、すごくダサいと思った。パチンコじゃあるまいし。

・書きながら気づいたが、昔はよく夢にあの頃のことが出てきた。辞めたけど店に戻ろうとしたりとか……。ある意味、トラウマだったのだと今さら気づく。


○ディスコGの基本情報

・前身は一世を風靡した「カンタベリーハウス ギリシャ館」。

・ユーロビート中心で、常連は「パラパラ」を踊る。

・常連は「いい子」が多かった。もちろん仲間以外に見せる違う顔もあるとわかるが、話していて、基本「いい子」。親とうまくいかなかったり、学校行ってなかったり、寂しい子が多かったと思う。

・営業時間は平日16~24時まで、金曜・土曜は16時~朝5時までのオールナイト。他の3店舗は平日も週末も17時から朝5時までだったと思う。

・フリードリンク・フリーフードのシステム。カクテルは超いい加減につくっていた。たまにちゃんとした大人が来て、「これが○○?」という顔をされる時も。レシピは一応あったような、なかったような。

・受付1人、中(バーカウンター&ホール)1、2人、残りはキャッチというパターンが平日は多かったと思う。「中のサービスが落ちてもいいから、とにかく外から人をかき込め」というスタイル。週末など人がいっぱい入ったときは、中が回らないので、ホールを増やしたり。


○キャッチの基本情報

・入場料の定価はないに等しい(少ない例だが外でキャッチにつかまらず、フリーで入ってきたお客さんの場合は男3,500円、女3,000円ぐらい)。

・常連は割引のメンバーズカードを持っている(一回行けばもらえた。男2,000円、女1,000円)。

・外では「500円引き」のカードを配る。基本は、一般人に向けて。メンバーズ価格からは割り引かない。しかし、一般人は定価を知らないし、こちらの値踏み次第。高く取れそうな大人の集団(結婚式の二次会とか)だと、「500円」引いて4000円、ということも。

・いくら客が引けないからといって、黙っていても入る常連をつかまえて上に案内して数字に加えることは、意味がないので怒られる。しかし、こちらも数字のため、まだあまり顔が割れていない常連は連れて行ったりする。

・声掛けは「ディスコいかがすか」「君かわいいから特別に安くしてあげるよ」とか。そのあとは相手の反応次第で。

・「君かわいいから…」はもちろん心無く言える。こんなので喜んでいたりすると、逆にこっちが意外。

・私の1年半?はかなり長いほう。売り上げに対する上からのプレッシャーで、長く続きにくい。私も、最初は週4ぐらいで入っていたが、後半はきつくて週2(水・土)ぐらいだった。(水曜はナツメロの日で常連が来る日、土曜は週末でシフト外せないので)

・集合時間(7時・9時・12時・3時)の点呼で全店舗のキャッチが集まり、その時点の売り上げを各自発表させられる。冬は、みんなに缶コーヒーをくれる。若いのが買いに行かされる。

・点呼では、売り上げが悪いと怒られる。たまに手も出る。→社会学者さんに「それ傷害罪じゃないですか」と真っ当な突込みをうける。もちろん当時のワタシ含め周囲にそんな意識はない。

・点呼での売り上げは自己申告なので(例、「1万1千円です」…2000円×4人、1500円×2人)、誤魔化すやつもいる。周りも気づき、「こいつ誤魔化したな」という目で見る。とにかく上の目があるので、売り上げが芳しくない時のプレッシャーの掛けられ方は、半端じゃない。女の子でオイシイ思いをすることを差し引いても、長く続きにくい。

・当時は「花粉症」という言葉がなかったが、春先はいつも目や鼻が症状に悩まされた。そんな時期にマスクもせず、週末なんかは夕方から深夜まで必死に歩き回っていたのだから、今考えると恐ろしい…。


○やくざ・警察官との関係

・T会館のディスコが、「T友愛」という暴力団がやっていてT友愛が山口組系である、という程度の認識は皆あったと思う。

・キャッチと暴力団の直接の交流はほぼ無し。お客としても、どこまでが関係者か、ただの不良かは厳密に判別できないが、基本的な認識としてお客としてあまり入っていなかったのでは。店側としては、裏でいくら繋がりがあったとしても、そういう客層を増やしたら一般客が来ないという当然の認識はあったはず。

・中国人は…正直、ほとんど意識しなかった。当時は隣の大久保も、あんなコリアンタウンにはなっていなかったし。

・基本的に、店と警察は「デキていた」と思う。

・キャッチは「違法行為」という認識はあり、警察官を見たら客引きを「やめる」「退け」という指示はあった。具体的には、警察官の存在に気づいたキャッチが、後ろのほうに「歩いて」いき、「警察、警察」と皆に教えて、客引き行為を中断させる。割引カードは隠す。

・ただし、新入りのキャッチが警官を見て走って逃げたような時、上の人間(4店の統括マネジャー)が点呼の際怒ったことも。「走って逃げるから、こちらも追いかけなけりゃいけなくなる」と警察官の立場から教えてくれたことがあったと記憶。

・もちろん警察が客引き行為に気づかないはずがないから、これは出来レースである。

・風営法関係の記憶ははっきりせず。


○オカマの立ちんぼ

・二人常連がいた。

・小森のおばちゃま似(以下K)、デッドオアアライブのボーカル似(以下D)。

・どちらも中高年と思われる。酔っ払い相手を専門としているように見えた(酔っ払いでないと一般人の性的対象には…)。

・Dのほうは背が高く(185-190cm? ヒールのせいかも)、からかってくるサラリーマンとよく喧嘩していた。いつぞや逃げるサラリーマンを追いかけ、後ろから背中に跳び蹴りを食らわせた場面を見たことがある。また、同じように追いかけ、からかわれたまま逃げ切られてしまい、激しく憤る姿も見たことがある。

・Dは激情型。よく一人でぶつくさ文句を言っていた。

・Kのほうは、指を一本立て、「1万円でいいから!」と言っていた場面を見たことがある。恐らくDも相場はそれぐらいではないかと推測される。

・ほとんどキャッチとは交流はなかったと思う。私は一度だけDと会話。客からエルメスのスカーフをもらったと自慢していた。

・彼らはいつまでストリートにいたのか、気になる。


○その他ストリート

・新聞配達の「新宿タイガー」はよく見た。

・テレクラのリンリンハウス前までが、T会館キャッチの南の縄張り。テープから流れる「ニッポン一安い!」「1時間800円!」の連呼は、未だに脳裏に。

・縄張りの範囲、東はT会館のビルが切れるところまで。範囲ははっきりしていたので、客と話しながら歩いてそこから出てしまったら、諦める。

・コマ劇場があった頃。公演が終わってお客さんが吐き出される時間帯は、中高年で路上が埋め尽くされるので、その時間帯は仕事にならず。

・コマ劇場前で、深夜に北島三郎を見たことがある。取り巻きと一緒だったが、本当に小さかった。

・「VIP」という店でボッたくられた、というサラリーマンによく会った。当時その界隈で有名だった模様。


以上、備忘録の一部です。




2012年11月13日火曜日

キャッチとは

キャッチとは何か。

プロレス・格闘技ファンなら、
Catch As Catch Can(キャッチ・アズ・キャッチ・キャン)を連想するはず。

「キャッチ・レスリング」の別名を挙げ、
カール・ゴッチやビル・ロビンソンの名前を出して説明を始める人もいるかもしれない。

しかし、その説明は、間違っている可能性が高い。
実は、Catch As Catch Canは関節を取り合うサブミッション・レスリングなどではなく、
単にフリースタイル・レスリングの古い言い方に過ぎないからだ。

上半身しか掴めないグレコローマン・レスリングに対して、
「掴めるところを掴む」「掴めるように掴む」という意味の、
フリースタイル・レスリングを指す、古い英語である。

……というのは、別にワタシが研究し考えたことではなく、
翻訳blogさん
http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/
のおかげで、近年日本でもその筋では広まった知見であり、
ワタシ自身もそれに同意するものである。

           *

さて、このフリースタイル・レスリングの「キャッチ」とは全く関係なく、
ワタシは自分自身が若い頃に歌舞伎町でやっていた「キャッチ」について、書いてみようと思う。
まあ、客引きだって、相手の関心の「掴めるところを掴む」「掴めるように掴む」のは同じだし、
いわば「フリースタイル」には違いない!

というのも、最近、ある学者さんの聞き取り調査に協力し、
バブル時代の「キャッチ」について、自分の体験談を話したのがきっかけ。
インタビュー前に埋もれた記憶をできるだけ引き出そうと(20年以上前!)
当時のことを箇条書きにしてみた。

聞き取り自体は、その学者さんのニーズと微妙にずれた感じだったのだが、
それはともかく、せっかくのメモを私的な備忘録として残しておこうと思ったのだ。
(あくまで表に出せるというか、出したい範囲で)

続きは、また気が乗ったときに。

2012年5月25日金曜日

ゴングのマスカラスか、マスカラスのゴングか?

ちょっと書くタイミングを逸しましたが……
5月3日、竹内宏介さんが永眠されました。

竹内さんは「月刊ゴング」をワタシが生まれる一年前に創刊した初代編集長であり、
プロレスファンには全日本プロレス中継の解説者としても知られています。
ワタシにとっては、プラス、日本スポーツ出版社時代の上司です。

尤も、それほど密な関係だったわけではありません。
ワタシの日本スポーツ時代、主に1994年10月から2000年12月までの最初の社員時代を指しますが
(2度辞めて3度復帰した男なので、複雑なのですが)、こちとら二十代の若造、竹内さんのほうは社長。
立場が違いすぎるうえ、竹内さんの専門はプロレスで、
『ゴング格闘技』のほうは舟木さんに完全に任せているという感じでした。

ワタシにとって、竹内さんとの印象的な出来事は数少ないですが、二つあります。

昔、ワタシは中央区の柔道大会に出て初段の部で優勝、
それをゴン格の大会結果欄に自らの手で紛れ込ませたことがあるのですが
(しかも写真付き。まだ若かったので……笑)、
竹内さんから思いがけず「社長賞」をいただきました。
「金一封」もいただいたのです。
直接手渡されたのではなく、上司の舟木さん経由だったと思います。
編集者として売れる雑誌をつくったとかじゃなく、完全なる社外活動。
しかも、柔道大会優勝という謎の理由……(笑)。
後日、批判も人伝えに聞きましたが、とにかく社員のそういう面まで目を配り、評価される方でした。
これは嬉しくて、忘れないように何か形に残そうと、ゴルチェのサングラスを購入したのを覚えています。

もう一つ。
ワタシが初めて自分の企画を通し「編集長」として携わったムックが『修斗読本』でした。
台割・構成も自分で考え、原稿も7、8割自分で書いた気がします。
もちろん二十代につくったものなので、いまから見れば編集の甘さが端々見えて仕方ないですが……、
当時はそれまで存在しなかった修斗オンリーのムック本をつくりあげたという達成感がありました。

これは割と光景として鮮明に覚えています。
ある日、本社と編集部の間の道で竹内さんに会い、「あれはいいね!」と声をかけられたのです。
「ありがとうございます! いや、マニアックで……」「いや、よかったよ!」というようなやり取りがありました。
竹内さんはプロレス畑の方で、当時ブームが始まりつつあった修斗のことは分からなかったはずですが、
ご自身がよく知らない分野でも、それが本としてよいものかどうかを判断された。
つくり手の偏愛ぶり、ノリノリ感も伝わったのかもしれません。
(デザイナーの安西さんも元修斗コミッションだったりしますし)
ともかく、この大編集者からの褒め言葉が、若造にとって嬉しくないはずがありません。
だって、ワタシ今でも忘れられないのですから。

ついでにいうと、桜庭vsホイラー戦でグレイシー越えにファンが狂喜乱舞するなか、
ゴン格(というかワタシ)は「桜庭のアームロックは極まっていなかった」という、
今からするとかなり空気読まない論陣を張り(笑)、
柏崎先生の腕がらみ解説まで引っ張り出して特集を構成しました。
容易に反論できないだけの、かなり丁寧な記事をつくったつもりです。
確かこの記事も、竹内さんに「よかったよ!」と褒められたのです。
ただ、そのときの光景が思い出せないのですが……、なので記憶違いの可能性も皆無ではないものの、
確かこれも竹内さんからだったと思います。

その後、日本スポーツもいろいろあって、経営者が代わったり、竹内さん自身病に倒れたり、
終いには某社長逮捕で会社自体が消える運命に……。

ただ、竹内さんというと、白山のあの道で「よかったよ!」と声をかけられた、
あの古い光景がワタシにとっていちばん思い出される竹内さんです。

とかく自意識過剰で臆病、人一倍他人の目を窺って生きる性質なのに、
やりたいことは空気も読まず突っ走らずにはいられないこのゴン格の若造編集者に対し、
ちょっぴり勇気と自信を与えてくれた大編集者……、
ワタシにとって竹内さんはそういう人だったと思います。

今更ながらのお礼を申し上げると共に、ご冥福をお祈りいたします。

2011年9月14日水曜日

婚活と格闘技雑誌のセクシュアリティ

このあいだ、婚活目的の合コンなど催す会社の女性経営者にお話をうかがう機会があった。
そこでの男女関係についての話が、個人的には、実に腑に落ちる話だったのだ。
結婚を前提としたお付き合いで、異性に求めるものは何かという話。
(ただ、恋愛においてもあまり変わらない人はそれなりにいる)

まず、「男と女、どちらが外見にこだわるか」。
これは男の方だという。

たとえば、女性は男性に対して、ルックスは評価の一部分である。
しかし、男性は女性に対しては、ルックスは評価の大部分を占める。

女性はルックス以外にも、男性の職業(及び年収つまり将来性)や家族構成(長男か次男かで親の面倒の有無)、性格(及び相性)など、いろいろ評価すべき軸があり、それらの総合点でお付き合いを判断するという。
ルックスは65点でよくもなく悪くもなく、職業は安定して収入も高めで90点、家族関係は長男だから低めの50点だけど、性格も相性もよいので90点以上……というように総合的な判断をする。
(実際に点数つけるわけではないだろうが)

一方、男性は、女性の職業や家族構成などを結婚の判断材料にあげる者は少ない。
性格すらも、そりゃよいに越したことはないが、それよりも何よりもルックスが自分的にOKかどうか(つまり自分なりにエロスを感じれるかどうか)が最大の評価軸である。

逆に言うと、ルックスさえクリアできて、自分のことを好いてくれるのであれば、性格やその他のものは「問題ない」範囲に収まっていればよいのである。

ここまで読んで、私はそういう人間ではない……と反発を感じた人は、この先を読み続けるのは時間の無駄なので、離脱推奨。
一般的にそういう傾向が強い、という話である。

確かに、そこまで男は外見にこだわっているだろうか、とワタシもその場で聞いたとき感じた。
しかし、男は外見にこだわっているわけではない。
単にそれが相手を選択するうえでの最大の評価軸である、という話である。

その女性経営者によると、渋谷の街角に立ってある一定時間、ルックスが好みの異性がいたらチェックする、という実験を男女にやらせた統計があるという。
結果、女性のほうは平均して数人程度だったのに対し、男性は数十人というレベル。
文字通り、ケタ違いの男女差が出たのだという。
(話の流れからして婚活中の男女を対象にした実験だったと思う)

男性は、女性のルックスが何よりも大きな関心事でありながらも、かといって、「こういうタイプじゃなきゃ絶対イヤだ」というこだわりがあるわけでもなく、その守備範囲は女性に比べてかなり広い。

それが男という生き物……!!(笑)。

いい人ぶりたい男が、「人って顔じゃないよ、内面だよ」などと言うとしたら、単にそいつのルックスに関する「守備範囲の広さ」を示しているだけ、というのは実はよくある話かも。

ここでフェミニズム的な分析を施すのは容易だろう。
が、やらない。
それが凡庸であるからではなく、ワタシが書きたかったのは、格闘技のことだから(笑)。

現在、定期刊行している月刊の格闘技雑誌は「ゴング格闘技」一誌のみ。
隔月刊で「ファイト&ライフ」はあるが、発行部数や業界に与える影響としては、正直、ゴン格には及ばない。
日本の経済不況、出版不況、格闘技ブームの終焉、ネットなどメディア環境の変化もあり、「格闘技通信」は昨年、「紙プロ」は今年休刊というのが、格闘技雑誌をめぐる現況である。

そのなか、最近いくつか格闘技関連ムックが出版されている。
つくり手としては、実験的に何号か出した後、売れ行きが良ければ版元が月刊化を決定……という展開を当然狙っているだろう。
(まだ具体的にそういう話が進んでいる例は寡聞にして知らない)

それらのムックを見て、改めて感じたことがある。
ネットは情報だけが命だけど、紙媒体は総合点だな、と。

ネットは、無料で情報が手に入ることが多いという点で評価のハードルが低くなることは大前提だが、いかにそれが今まで関係者しか知らないような貴重な話であったり、初めて公表される事実であったり、真実に近いと思われる裏話であったりするのかという、つまりテキストにおける情報が全てである。

もちろん、紙媒体の雑誌だって、テキストが肝なのは変わりないのだが、雑誌好きのあなたなら知っているはずだ。
写真の素晴らしさやデザインのセンス、キャッチコピーや雑誌全体の構成から伺われるコンセプトや編集者の情熱らしきものも、私たちは雑誌に欲望する。

「テキスト」は買ってからでないとじっくり味わえないので(何でも立ち読みで済ませられる人には雑誌好きはいないと思う)、その雑誌の世界観も含めて所有したい、じっくりそれを自分の時間で味わいたいと、雑誌好きなら思うものである。
(ちなみに、雑誌におけるテキストは情報だけに留まらない。事象を切り取る解説や視点の斬新さ、もちろん文章の巧さなんかも、金を払う以上必要である)

たとえばワタシの場合だと、写真が残念な雑誌には、個人的には総合点が一気に下がってしまったりもする。
写真が残念だけどデザインは素晴らしいということはまず無いので、これらはたいがいセットになっている。
(残念ながら編集者のほうは自覚できない。センスとはそういうものだから)
よって、ワタシの所有欲は当然下がる。

しかし、それらが残念な出来であっても、テキストに関しては素晴らしく評価できるということはありうる。
とすると、紙媒体は総合点でありつつも、どの異性(読者)に対して強く届くのか、というのは雑誌の個性になるのであろう。

ワタシ自身は女性に対してルックスの部分で高い評価は得られないと思っているから、総合点での評価を強く希望する(笑)。

しかし、元・雑誌のつくり手としてのワタシは、総合点で評価されることは決して「救い」なのではなく、総合点で評価されるからこそ実に「怖い」ことなのだ、と恐れている。

そして、現・格闘技ファンとして書店でパラッとページをめくるときのワタシは、キャッチコピー一つを見て、「この雑誌の編集者は古いなー」とか残酷な刻印を押してしまうこともある。

定期刊行物の雑誌編集者なら分かると思うが、大事なのは「ドントシンク、フィール!(考えるな、感じよ)」「考える前に跳べ!」的な読者を、その雑誌で持つことである。
そりゃ、毎月つくっていれば、いつもいつも魅力的なコンテンツ満載というわけにはいかないのだ。
どうしてもネタが厳しい号もある。
それでも、この雑誌を欲望してもらうには、テキストだけでは不安定だし不十分なのは自明である。
それこそ普段からの「総合点」で信頼してもらい、ファンになってほしいのである。

だからこそ、テキストも写真もデザインも、すべて手を抜けないし、手を抜いているような(たいがい当事者に自覚はない)紙媒体を見ると、「あなたたちね……」とひとりごちるのだ。

それが、紙媒体。
かくも厳しき、総合点!

中身のある会話などなくていいの。
別に何か話すことがあるってわけじゃないけど、ただ会いたい。
会っていれば幸せなの。
……そんなトキメキを、毎月発売日に持ってもらわなきゃ困るのである。

出会えれば、しあわせ。
そんな関係を築くまでには時間がかかるし手抜けないし、そりゃ大変だよー、っていうことを、いくつかのムックを読んで、思ってしまった次第である。
■

2011年7月6日水曜日

喧嘩の止め方

日曜日のまだ明るい夕方、大久保の裏道で若者二人が喧嘩をおっぱじめそうな雰囲気。
茶髪が黒髪に文句をつけてて、今にも殴りかかりそうな勢い。
黒髪のほうはというと、文句言われて、小突かれて、何か言いたげだけど、黙って相手を見ている。
水商売の同じ店の人間っぽい。
たぶん女関係のトラブルじゃないかなと感じた。

なんでそこまで観察していたかというと、ワタシは軽く通り過ぎたかったのだが、ゴツく正義感あふれるサンボの仲間たちが止めに入る構えを見せていたからだ。

ワタシとて、これが一対多数だったり、武器を持っていたりすれば話は別だ。
あるいはこれが一方的な力関係に見えたら、もう少し感じ方が違ったかもしれないが、昼間の住宅街で人通りもないわけではない。
生死にかかわるようなことにはならないだろう、というただの直観である(もちろん根本は面倒には関わりたくない、だ)

しかし、仲間たちがそのような感じなので、ワタシも少し離れたところで見守っていたら、突如、茶髪がヒートアップ。
黒髪の首を絞め始めた。
といっても、いかにも素人のヘッドロックっぽい絞め方。

仕方ないのでワタシも近寄って行ったが、それよりも全然早く仲間の一人は反応し、その茶髪の背後から絞めあげる。
その瞬間、見た目はまるでプロレスのバトルロイヤル(笑)。

もっとも、その仲間が後で言うには、チョークではなく、あえてフェイスロックで締めあげたらしい。「噛まれるリスクはあったけど」とも言っていた。
絞め落とすのが目的ではなく、二人を離させるのが目的だから、そうしたのだろう。

まあそんなことより、ワタシが感心したのは、そんな茶髪の輩に対して、フェイスロックで引きはがしにかかりながら、「やめましょう、やめましょう」と丁寧語だったことである。

この仲間は、レスリングでもサンボでも大変な実績がある方である。
腕っぷしでは茶髪など全く寄せ付けない方なのに……、いや、素晴らしい。

ワタシは喧嘩の技術なんかよりも、喧嘩を止める技術のほうに関心がある。

さて、そんな色んな人間が止めに入ったことで、何となく大丈夫そうだと判断した私たちはその場を離れ、しばらくして別の仲間と合流した。

その別の仲間の話によると、さっきの場所に警察が来ていたとか。

住宅街だったし、近隣住民が通報したのかもしれない。

しかし、仲間たちは言う。
ワタシの見た目が怖いから、住民が通報したんだよって。
そんなことはないはずだ(笑)。

2011年1月9日日曜日

柔術教師

例によってご無沙汰しています。

しばらくここで連載していたタイトル「柔術、どれぐらいやってるんですか?」ですが、
実はトライフォース青山のブログで、その答えらしきものを書いてしまいました(笑)。

埼玉県和光市の体育館でワタシが柔術クラスを始めることになり、
その告知用に、主に柔術道場の方を対象にして書いた文章なのですが、
以下にほぼ同内容のものを転載いたします。

次の機会に、ブログの連載タイトルも変えねば。

****************************************************************
このたび、埼玉・和光市総合体育館(http://www.konamisportsandlife.co.jp/trust/wako/)で柔術講座を受け持つことになりました、トライフォース青山の茶帯、藁谷です。

石川先生がご厚意で「ブログで紹介するから」ということで、講座の詳細をお知らせします。

場所は和光市総合体育館(和光市広沢3-1/TEL048-462-0107)で、年明け1/8(土)からスタート。
毎週土曜日16:30~17:30、1クール3カ月12回(3カ月後も延長できます)、税込1万2千円です。

という時間や場所だけ書いて送ったら、もっと書いてほしい…ということで、ちょっと長めの文章を書かせていただきます。

まず、簡単な自己紹介から。
私、藁谷はトライフォース麹町(現・青山)に入会して約2年半、茶帯に昇格して1年です。
麹町の前は、他の柔術道場に約3年間在籍していました。
さらにその前は、サンボや高専柔道をやっていました。

今回の指導の話は、妻の職場の関係で私個人に直接来たものであり、「トライフォース和光(TFW)新設!」ということではなく、単に「ブラジリアン柔術講座」を藁谷個人が受け持つという形式になります
(石川先生からは「何でも協力する」とありがたい言葉をいただいています)。
恐らく公の施設が運営するブラジリアン柔術講座というのは、まだ全国でも珍しいのではないでしょうか。

そして、私自身、柔術の指導を受け持つのは、今回が初めてとなります。
もちろん、青山でも頼まれて足関などを教えることは時々あります。
でも、単に時間内にその技を教えて出来るようにするだけでなく、
生徒さんが楽しく続けられて、柔術が上手く強くなっていくように一からプログラムを考えていくのは、かなりステージが異なると感じています。

前に石川先生からは「指導をやると、上手くなる」と言われたことがあります。
他人に伝えるためには、細部まで体の動きが論理的でなければならないわけで、そこで技の理解が深まるのは今まで実感してきました。
でも、これはさらに一段階上の何かが待ち受けているのでしょうね……(まだ「予感」です)。

人に教えることとは、どういうことなのか。
そう考えると、自然と自分の来し方を振り返ってしまいます。

私はトライフォースにいる多くの道場生の方とは少し違う道を辿って来たかもしれません。
結論から言うと、私は長い間、「柔術」というよりも、「寝技」を嗜んできました。
ある程度、寝技に特化した練習を私が始めたのは1996年の春、高専柔道を現代に受け継ぐ寝業研究会だったということもあるでしょう
(当時はちょうど日本に初めて柔術道場が出来た頃でした)。
数少ない寝技中心の乱取が出来るところであれば、柔術でも柔道でも高専柔道でもサンボでも総合の道場でも、喜んで行きました。
寝技が好きで、寝技が出来るところなら、いろいろルールやスタイルは違っていたほうが面白いと思っていました。
初期の柔術家たちは、そういう方は他にもいましたね。
パラエストラの昼柔術にもよく行かせていただきましたし、そこで現在のトライフォースの各先生方とも出会っています。

青帯の後半ぐらいまでは柔術道場に所属することなく、あくまで私自身は(柔術ルールの)「寝技」をやっているという感覚でしたね。
もっとも、紫帯ぐらいからは柔術以外の道場に行くことはほとんど無くなったので、今はもう完全に「柔術」という意識になっていますが。

なので、多くの生徒さんのように、道場に行って、毎回先生から技を三つ四つ習って……ということは、しばらく経験してきませんでした。
サンボや高専柔道で学んだ技の他は、柔術や柔道のビデオ(DVDではなく)や技術書(雑誌の技術企画含む)などを見て、自分で勉強していましたね。

それはメリット、デメリットあると思います。

メリットでいえば、人から技を与えられないので、常に自分で考える癖がつくのではないかと。

たとえば、昔、よく柔術界には「柔術は力が要らない」と言う人たちはいましたし、スパーしてても「もっと力を抜け」とか言う人たちがいました。
しかし、そんなことは全く重要ではないと、私はずっと思っていました(この辺のことは過去に原稿にも書きました)。
それは、柔道やサンボ、グラップリングなど他の格闘技のように、私は柔術も全く同じ「スポーツ競技」としてフラットにとらえていたからです。
逆に、人の体を制する技術の考え方自体に、そんな大きな差があったらおかしいです。

私自身は強さ弱さでいえば、茶帯のほうでも下の部類です。
ただし、私のようなスタイルの人はあまり他に見当たらないのではないかと思います(笑)。

そのおかげで、陰で批判されることも多々ありましたし、今でもないわけではないようですが、それは仕方ありません。

デメリットでいえば、その分、技にかなり偏りが出てくること。

なので、たとえば当初、麹町の「基礎クラス」に、紫帯や茶帯になって出るのは恥ずかしいという気持ちもちょっぴりあったのですが、実は出てみると初めて知ることも多かったりしますし、今でもけっこう新鮮な気持ちで臨んでいることは告白しておきます(笑)。

さて、これから私が和光市で教える生徒さんは、たぶん私とは異なる道を進むことになります。
基本的に、本当の初心者ばかりが集まることでしょう。
いや、そもそも人が集まるのか不安ではありますが……、それはさておき。
今回の講座では、技自体はトライフォースで学んだものを中心に、自分が考える基本というものを伝えていくことになります。

人はどのようにして強くなるのか。
人はどのようにしたら、楽しみながら続けていけるのか。
教える側も模索しながら、指導していくことになります。

そして生徒さんの中から、週一回の講座では飽き足らず、「毎日やりたい」という生徒が出てきたら、嬉しいですね。
トライフォースでやるのがベストですが、別にアクセスが良い近くの道場でもいいと思います。
そういう生徒さんが出てくるのを、とりあえず最初の目標にしておきます。

柔術は、寝技は楽しいです。中毒になります。
私自身、仕事や生活環境の変化で、2度ほど約2年間ずつ休んだことがあります。
でも、その都度、またやりたくなって復活しました。
ブランクは大変ですが、それでも立ち技ほどの大変さではないですし、ロールすればまたぞろ脳内麻薬が出てくるのは、みなさん御承知の通り。

人生、嵐のような大変な時期はきっと誰にもあります。
でもそういう時期は焦らなくてもいいし、きっと柔術は人生を通してゆっくりと、じっくりと関わっていけるもの。
そんな柔術の愉しさも、私が伝えるといったら意気込みすぎですが、自然と伝えられたらいいなと思います。

最後に。
このブログの読者はトライフォースの会員さんがほとんどだと思われますが、もし和光市周辺にお住まいの白帯の方、「土曜日ぐらい、家族もいるので近くで練習したいな」という方などおりましたら、ダブルスクール感覚で和光市総合体育館に来てみてはいかがでしょうか(笑)。
というお誘いで、この稿を締めます。

了