2011年9月14日水曜日

婚活と格闘技雑誌のセクシュアリティ

このあいだ、婚活目的の合コンなど催す会社の女性経営者にお話をうかがう機会があった。
そこでの男女関係についての話が、個人的には、実に腑に落ちる話だったのだ。
結婚を前提としたお付き合いで、異性に求めるものは何かという話。
(ただ、恋愛においてもあまり変わらない人はそれなりにいる)

まず、「男と女、どちらが外見にこだわるか」。
これは男の方だという。

たとえば、女性は男性に対して、ルックスは評価の一部分である。
しかし、男性は女性に対しては、ルックスは評価の大部分を占める。

女性はルックス以外にも、男性の職業(及び年収つまり将来性)や家族構成(長男か次男かで親の面倒の有無)、性格(及び相性)など、いろいろ評価すべき軸があり、それらの総合点でお付き合いを判断するという。
ルックスは65点でよくもなく悪くもなく、職業は安定して収入も高めで90点、家族関係は長男だから低めの50点だけど、性格も相性もよいので90点以上……というように総合的な判断をする。
(実際に点数つけるわけではないだろうが)

一方、男性は、女性の職業や家族構成などを結婚の判断材料にあげる者は少ない。
性格すらも、そりゃよいに越したことはないが、それよりも何よりもルックスが自分的にOKかどうか(つまり自分なりにエロスを感じれるかどうか)が最大の評価軸である。

逆に言うと、ルックスさえクリアできて、自分のことを好いてくれるのであれば、性格やその他のものは「問題ない」範囲に収まっていればよいのである。

ここまで読んで、私はそういう人間ではない……と反発を感じた人は、この先を読み続けるのは時間の無駄なので、離脱推奨。
一般的にそういう傾向が強い、という話である。

確かに、そこまで男は外見にこだわっているだろうか、とワタシもその場で聞いたとき感じた。
しかし、男は外見にこだわっているわけではない。
単にそれが相手を選択するうえでの最大の評価軸である、という話である。

その女性経営者によると、渋谷の街角に立ってある一定時間、ルックスが好みの異性がいたらチェックする、という実験を男女にやらせた統計があるという。
結果、女性のほうは平均して数人程度だったのに対し、男性は数十人というレベル。
文字通り、ケタ違いの男女差が出たのだという。
(話の流れからして婚活中の男女を対象にした実験だったと思う)

男性は、女性のルックスが何よりも大きな関心事でありながらも、かといって、「こういうタイプじゃなきゃ絶対イヤだ」というこだわりがあるわけでもなく、その守備範囲は女性に比べてかなり広い。

それが男という生き物……!!(笑)。

いい人ぶりたい男が、「人って顔じゃないよ、内面だよ」などと言うとしたら、単にそいつのルックスに関する「守備範囲の広さ」を示しているだけ、というのは実はよくある話かも。

ここでフェミニズム的な分析を施すのは容易だろう。
が、やらない。
それが凡庸であるからではなく、ワタシが書きたかったのは、格闘技のことだから(笑)。

現在、定期刊行している月刊の格闘技雑誌は「ゴング格闘技」一誌のみ。
隔月刊で「ファイト&ライフ」はあるが、発行部数や業界に与える影響としては、正直、ゴン格には及ばない。
日本の経済不況、出版不況、格闘技ブームの終焉、ネットなどメディア環境の変化もあり、「格闘技通信」は昨年、「紙プロ」は今年休刊というのが、格闘技雑誌をめぐる現況である。

そのなか、最近いくつか格闘技関連ムックが出版されている。
つくり手としては、実験的に何号か出した後、売れ行きが良ければ版元が月刊化を決定……という展開を当然狙っているだろう。
(まだ具体的にそういう話が進んでいる例は寡聞にして知らない)

それらのムックを見て、改めて感じたことがある。
ネットは情報だけが命だけど、紙媒体は総合点だな、と。

ネットは、無料で情報が手に入ることが多いという点で評価のハードルが低くなることは大前提だが、いかにそれが今まで関係者しか知らないような貴重な話であったり、初めて公表される事実であったり、真実に近いと思われる裏話であったりするのかという、つまりテキストにおける情報が全てである。

もちろん、紙媒体の雑誌だって、テキストが肝なのは変わりないのだが、雑誌好きのあなたなら知っているはずだ。
写真の素晴らしさやデザインのセンス、キャッチコピーや雑誌全体の構成から伺われるコンセプトや編集者の情熱らしきものも、私たちは雑誌に欲望する。

「テキスト」は買ってからでないとじっくり味わえないので(何でも立ち読みで済ませられる人には雑誌好きはいないと思う)、その雑誌の世界観も含めて所有したい、じっくりそれを自分の時間で味わいたいと、雑誌好きなら思うものである。
(ちなみに、雑誌におけるテキストは情報だけに留まらない。事象を切り取る解説や視点の斬新さ、もちろん文章の巧さなんかも、金を払う以上必要である)

たとえばワタシの場合だと、写真が残念な雑誌には、個人的には総合点が一気に下がってしまったりもする。
写真が残念だけどデザインは素晴らしいということはまず無いので、これらはたいがいセットになっている。
(残念ながら編集者のほうは自覚できない。センスとはそういうものだから)
よって、ワタシの所有欲は当然下がる。

しかし、それらが残念な出来であっても、テキストに関しては素晴らしく評価できるということはありうる。
とすると、紙媒体は総合点でありつつも、どの異性(読者)に対して強く届くのか、というのは雑誌の個性になるのであろう。

ワタシ自身は女性に対してルックスの部分で高い評価は得られないと思っているから、総合点での評価を強く希望する(笑)。

しかし、元・雑誌のつくり手としてのワタシは、総合点で評価されることは決して「救い」なのではなく、総合点で評価されるからこそ実に「怖い」ことなのだ、と恐れている。

そして、現・格闘技ファンとして書店でパラッとページをめくるときのワタシは、キャッチコピー一つを見て、「この雑誌の編集者は古いなー」とか残酷な刻印を押してしまうこともある。

定期刊行物の雑誌編集者なら分かると思うが、大事なのは「ドントシンク、フィール!(考えるな、感じよ)」「考える前に跳べ!」的な読者を、その雑誌で持つことである。
そりゃ、毎月つくっていれば、いつもいつも魅力的なコンテンツ満載というわけにはいかないのだ。
どうしてもネタが厳しい号もある。
それでも、この雑誌を欲望してもらうには、テキストだけでは不安定だし不十分なのは自明である。
それこそ普段からの「総合点」で信頼してもらい、ファンになってほしいのである。

だからこそ、テキストも写真もデザインも、すべて手を抜けないし、手を抜いているような(たいがい当事者に自覚はない)紙媒体を見ると、「あなたたちね……」とひとりごちるのだ。

それが、紙媒体。
かくも厳しき、総合点!

中身のある会話などなくていいの。
別に何か話すことがあるってわけじゃないけど、ただ会いたい。
会っていれば幸せなの。
……そんなトキメキを、毎月発売日に持ってもらわなきゃ困るのである。

出会えれば、しあわせ。
そんな関係を築くまでには時間がかかるし手抜けないし、そりゃ大変だよー、っていうことを、いくつかのムックを読んで、思ってしまった次第である。
■

2011年7月6日水曜日

喧嘩の止め方

日曜日のまだ明るい夕方、大久保の裏道で若者二人が喧嘩をおっぱじめそうな雰囲気。
茶髪が黒髪に文句をつけてて、今にも殴りかかりそうな勢い。
黒髪のほうはというと、文句言われて、小突かれて、何か言いたげだけど、黙って相手を見ている。
水商売の同じ店の人間っぽい。
たぶん女関係のトラブルじゃないかなと感じた。

なんでそこまで観察していたかというと、ワタシは軽く通り過ぎたかったのだが、ゴツく正義感あふれるサンボの仲間たちが止めに入る構えを見せていたからだ。

ワタシとて、これが一対多数だったり、武器を持っていたりすれば話は別だ。
あるいはこれが一方的な力関係に見えたら、もう少し感じ方が違ったかもしれないが、昼間の住宅街で人通りもないわけではない。
生死にかかわるようなことにはならないだろう、というただの直観である(もちろん根本は面倒には関わりたくない、だ)

しかし、仲間たちがそのような感じなので、ワタシも少し離れたところで見守っていたら、突如、茶髪がヒートアップ。
黒髪の首を絞め始めた。
といっても、いかにも素人のヘッドロックっぽい絞め方。

仕方ないのでワタシも近寄って行ったが、それよりも全然早く仲間の一人は反応し、その茶髪の背後から絞めあげる。
その瞬間、見た目はまるでプロレスのバトルロイヤル(笑)。

もっとも、その仲間が後で言うには、チョークではなく、あえてフェイスロックで締めあげたらしい。「噛まれるリスクはあったけど」とも言っていた。
絞め落とすのが目的ではなく、二人を離させるのが目的だから、そうしたのだろう。

まあそんなことより、ワタシが感心したのは、そんな茶髪の輩に対して、フェイスロックで引きはがしにかかりながら、「やめましょう、やめましょう」と丁寧語だったことである。

この仲間は、レスリングでもサンボでも大変な実績がある方である。
腕っぷしでは茶髪など全く寄せ付けない方なのに……、いや、素晴らしい。

ワタシは喧嘩の技術なんかよりも、喧嘩を止める技術のほうに関心がある。

さて、そんな色んな人間が止めに入ったことで、何となく大丈夫そうだと判断した私たちはその場を離れ、しばらくして別の仲間と合流した。

その別の仲間の話によると、さっきの場所に警察が来ていたとか。

住宅街だったし、近隣住民が通報したのかもしれない。

しかし、仲間たちは言う。
ワタシの見た目が怖いから、住民が通報したんだよって。
そんなことはないはずだ(笑)。

2011年1月9日日曜日

柔術教師

例によってご無沙汰しています。

しばらくここで連載していたタイトル「柔術、どれぐらいやってるんですか?」ですが、
実はトライフォース青山のブログで、その答えらしきものを書いてしまいました(笑)。

埼玉県和光市の体育館でワタシが柔術クラスを始めることになり、
その告知用に、主に柔術道場の方を対象にして書いた文章なのですが、
以下にほぼ同内容のものを転載いたします。

次の機会に、ブログの連載タイトルも変えねば。

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このたび、埼玉・和光市総合体育館(http://www.konamisportsandlife.co.jp/trust/wako/)で柔術講座を受け持つことになりました、トライフォース青山の茶帯、藁谷です。

石川先生がご厚意で「ブログで紹介するから」ということで、講座の詳細をお知らせします。

場所は和光市総合体育館(和光市広沢3-1/TEL048-462-0107)で、年明け1/8(土)からスタート。
毎週土曜日16:30~17:30、1クール3カ月12回(3カ月後も延長できます)、税込1万2千円です。

という時間や場所だけ書いて送ったら、もっと書いてほしい…ということで、ちょっと長めの文章を書かせていただきます。

まず、簡単な自己紹介から。
私、藁谷はトライフォース麹町(現・青山)に入会して約2年半、茶帯に昇格して1年です。
麹町の前は、他の柔術道場に約3年間在籍していました。
さらにその前は、サンボや高専柔道をやっていました。

今回の指導の話は、妻の職場の関係で私個人に直接来たものであり、「トライフォース和光(TFW)新設!」ということではなく、単に「ブラジリアン柔術講座」を藁谷個人が受け持つという形式になります
(石川先生からは「何でも協力する」とありがたい言葉をいただいています)。
恐らく公の施設が運営するブラジリアン柔術講座というのは、まだ全国でも珍しいのではないでしょうか。

そして、私自身、柔術の指導を受け持つのは、今回が初めてとなります。
もちろん、青山でも頼まれて足関などを教えることは時々あります。
でも、単に時間内にその技を教えて出来るようにするだけでなく、
生徒さんが楽しく続けられて、柔術が上手く強くなっていくように一からプログラムを考えていくのは、かなりステージが異なると感じています。

前に石川先生からは「指導をやると、上手くなる」と言われたことがあります。
他人に伝えるためには、細部まで体の動きが論理的でなければならないわけで、そこで技の理解が深まるのは今まで実感してきました。
でも、これはさらに一段階上の何かが待ち受けているのでしょうね……(まだ「予感」です)。

人に教えることとは、どういうことなのか。
そう考えると、自然と自分の来し方を振り返ってしまいます。

私はトライフォースにいる多くの道場生の方とは少し違う道を辿って来たかもしれません。
結論から言うと、私は長い間、「柔術」というよりも、「寝技」を嗜んできました。
ある程度、寝技に特化した練習を私が始めたのは1996年の春、高専柔道を現代に受け継ぐ寝業研究会だったということもあるでしょう
(当時はちょうど日本に初めて柔術道場が出来た頃でした)。
数少ない寝技中心の乱取が出来るところであれば、柔術でも柔道でも高専柔道でもサンボでも総合の道場でも、喜んで行きました。
寝技が好きで、寝技が出来るところなら、いろいろルールやスタイルは違っていたほうが面白いと思っていました。
初期の柔術家たちは、そういう方は他にもいましたね。
パラエストラの昼柔術にもよく行かせていただきましたし、そこで現在のトライフォースの各先生方とも出会っています。

青帯の後半ぐらいまでは柔術道場に所属することなく、あくまで私自身は(柔術ルールの)「寝技」をやっているという感覚でしたね。
もっとも、紫帯ぐらいからは柔術以外の道場に行くことはほとんど無くなったので、今はもう完全に「柔術」という意識になっていますが。

なので、多くの生徒さんのように、道場に行って、毎回先生から技を三つ四つ習って……ということは、しばらく経験してきませんでした。
サンボや高専柔道で学んだ技の他は、柔術や柔道のビデオ(DVDではなく)や技術書(雑誌の技術企画含む)などを見て、自分で勉強していましたね。

それはメリット、デメリットあると思います。

メリットでいえば、人から技を与えられないので、常に自分で考える癖がつくのではないかと。

たとえば、昔、よく柔術界には「柔術は力が要らない」と言う人たちはいましたし、スパーしてても「もっと力を抜け」とか言う人たちがいました。
しかし、そんなことは全く重要ではないと、私はずっと思っていました(この辺のことは過去に原稿にも書きました)。
それは、柔道やサンボ、グラップリングなど他の格闘技のように、私は柔術も全く同じ「スポーツ競技」としてフラットにとらえていたからです。
逆に、人の体を制する技術の考え方自体に、そんな大きな差があったらおかしいです。

私自身は強さ弱さでいえば、茶帯のほうでも下の部類です。
ただし、私のようなスタイルの人はあまり他に見当たらないのではないかと思います(笑)。

そのおかげで、陰で批判されることも多々ありましたし、今でもないわけではないようですが、それは仕方ありません。

デメリットでいえば、その分、技にかなり偏りが出てくること。

なので、たとえば当初、麹町の「基礎クラス」に、紫帯や茶帯になって出るのは恥ずかしいという気持ちもちょっぴりあったのですが、実は出てみると初めて知ることも多かったりしますし、今でもけっこう新鮮な気持ちで臨んでいることは告白しておきます(笑)。

さて、これから私が和光市で教える生徒さんは、たぶん私とは異なる道を進むことになります。
基本的に、本当の初心者ばかりが集まることでしょう。
いや、そもそも人が集まるのか不安ではありますが……、それはさておき。
今回の講座では、技自体はトライフォースで学んだものを中心に、自分が考える基本というものを伝えていくことになります。

人はどのようにして強くなるのか。
人はどのようにしたら、楽しみながら続けていけるのか。
教える側も模索しながら、指導していくことになります。

そして生徒さんの中から、週一回の講座では飽き足らず、「毎日やりたい」という生徒が出てきたら、嬉しいですね。
トライフォースでやるのがベストですが、別にアクセスが良い近くの道場でもいいと思います。
そういう生徒さんが出てくるのを、とりあえず最初の目標にしておきます。

柔術は、寝技は楽しいです。中毒になります。
私自身、仕事や生活環境の変化で、2度ほど約2年間ずつ休んだことがあります。
でも、その都度、またやりたくなって復活しました。
ブランクは大変ですが、それでも立ち技ほどの大変さではないですし、ロールすればまたぞろ脳内麻薬が出てくるのは、みなさん御承知の通り。

人生、嵐のような大変な時期はきっと誰にもあります。
でもそういう時期は焦らなくてもいいし、きっと柔術は人生を通してゆっくりと、じっくりと関わっていけるもの。
そんな柔術の愉しさも、私が伝えるといったら意気込みすぎですが、自然と伝えられたらいいなと思います。

最後に。
このブログの読者はトライフォースの会員さんがほとんどだと思われますが、もし和光市周辺にお住まいの白帯の方、「土曜日ぐらい、家族もいるので近くで練習したいな」という方などおりましたら、ダブルスクール感覚で和光市総合体育館に来てみてはいかがでしょうか(笑)。
というお誘いで、この稿を締めます。

了

2010年11月14日日曜日

「柔術、どれぐらいやってるんですか?」9

「オイッ」と後輩の肩を叩いたところ、
振り返ったその顔は、F村ではなかった。
肩を叩いたのは、こともあろうに1年前、準決勝で戦った元木選手だった。
同じ坊主頭だったから、間違えてしまったのだ(笑)。

試合中に「逃げるな!」とほざかれ(失礼…当時の心境を再現すると)、目を指で突かれ(故意ではないが)、ほとんど形に入った膝固めを反則によって逃げられてしまった(これも恐らく故意ではないだろうが)、あの因縁の相手である。
向こうだって、ワタシを「あの野郎!」ぐらいは思っているだろう。

まさかの展開に、一瞬頭が空白になったW少年は、どうしたか。
なんと、間違ったことを悟られないように振る舞うことを選択した。
「あ、元気?」ぐらいは言ったかもしれない(笑)。

元木選手からは同じ62kg級エントリーじゃなかったことを問いただされて、「いや、もともと57kg級で、去年は減量できなくて62kgにしたんだ」とか答えた記憶がある。

二言、三言を交わして、微妙な感じのままW少年はその場を離れた(笑)。

元木選手はこのときの全日本では準優勝になったが、翌年はワタシの先輩の故・杉本さんの金メダルを常に阻んできた、東海大柔道部出身の小林左右長さんにも勝って、2度ほどシニアでチャンピオンになっている。

その後、元木選手は本職のグレコに専念して、こちらでも実績を出していった。
遅咲きの努力型タイプで、シドニー五輪では日本代表にまで上り詰め、その後もナショナルチームのコーチを務めるなど、指導者としても高い評価を得ている。

後日談だが、元木選手とワタシの共通の友人である山形出身の某接骨医から聞いたところでは、「自分のほうが負けているのに、“逃げるな”って言うのはやっぱり恥ずかしかった」と言ってたらしい。

ちなみに、ワタシが記者になってから言われたことだが、あるスポ館の先輩から「君の最大にして唯一の功績は、元木に勝ったことだよ」と評価されたことがある。
元木選手にしろ、足立選手にしろ、競技者としてワタシよりも遙かに高みにいった人間と、若い頃の一時にせよ凌ぎを削れたのは、大事な思い出でありちょっとした誇りでもある。

閑話休題。
試合前に後輩と因縁の相手を見間違えるという、そんなしょうもない“事件”はあったが、しかし試合のほうもひどかった。
もう相手の名前も所属も覚えていないが、自分の中では「勝てる相手」として臨んだ試合だった。
しかし、グダグダの試合になった。
ポイントが取れないのだ。
当時よく使っていた背負い→小外のフェイントで1ポイント取ったぐらい。
結果は、初戦敗退だった。

ズバリ、練習不足というしかない。
大学生になって合コンだ水商売だと浮かれていた自分に、相応しい結果が出た。
初戦でワタシに勝った相手も2回戦で負けていたし、さほど強い相手でもなかったのだろう。
1年前と違って、涙も出ない。
涙は、試合に向けて全力を出した者だけに相応しい。
試合のときに全力を出したかどうかではなく、試合前の練習で悔いなきようにどれだけ自分を追い込んで全力を出したかである。

この大学1年秋の全日本を境に、ワタシはスポ館の練習から足が遠のいた。
そして、再び夜の世界に戻っていった。

続く。

2010年10月11日月曜日

「柔術、どれぐらいやってるんですか?」8

ワタシの大学生活で待ち受けていたものは……、
“怠惰”だったかもしれません(笑)。

入学と同時に法政大学の寮に入ると、
地方から集まって来た新入生たちとどんちゃん騒ぎの日々。
毎日が修学旅行のように楽しく、
週末は常に合コンの予定で埋まっていました。

ご覧のように、これまでただのプロレスオタク、格闘技オタクだった自分も
「大学デビュー」で急にはじけてしまったわけですわ。

それで、夏からは水商売も始めて、
大学時代はいろいろな水商売を渡り歩くことになるわけですが、
ここは省略。

その中で、ワタシは格闘技的にはどのように過ごしていたのか。

前回書いたように、浪人生のときの全日本決勝で敗れた自分は、
「大学に入ってレスリング部と柔道部に入る!」
なんて一人雪辱に燃えていたわけですが、
結局、とりあえず入ったのは「柔道同好会」。

他にも幾つかサークルに入っていた自分にとっては、
「同好会」ぐらいがちょうど良かったのでしょう。
しかし、それも大学1年の春合宿に行った後、
夏合宿を迎える前に足が遠のきました……。

(ちなみに、大学で最後まで続けたサークルは、
T女子大と合同の「ラケットボール」のサークル。
格闘技ファン的には、エンセン、イーゲン兄弟がやっていたことで
名前は聞いたことがある人もいるかもしれません。
ワタシは、修斗デビューの遙か前から井上兄弟のことは
ラケットボールのほうで知ってました)

サンボの練習のほうは、やはり頻度は少なくなっていましたが、
大学入学後も一応は通っていたと思います。

※以下、加筆修正しました。

1989年9月、ワタシが大学1年のときに、当時のソ連サンボ代表が来日しました。
サンボの日本代表vsソ連代表というイベントが
代々木第二で行なわれたのです。

そういえば当時はベースボールマガジンもサンボに力を入れていて、
「格闘技通信」にサンボをよく取りあげていました。
同年3月には同じ代々木第二でベーマガ主催「サンボフォーラム」も開かれていて、
前田日明さんもソ連のサンビストと交流したりしていて。
もちろん、ワタシも会場に駆けつけています。
十字を取る体勢に入りながらアキレスを取る技とか、
前田さんがすごく感心していたのは覚えてます。
当時は第二次UWFの時代ですね。
(ワタシは第一次UWFのときは後楽園に通い詰めたクチですが)

話をもどすと、9月の代々木第二での日本代表vsソ連代表の前日ぐらいに、スポーツ会館でも、
スポ館代表vsソ連代表が行なわれました。
ワタシもスポ館代表として出場しています。

それというのも、全日本出場枠を巡る57kg級の
スポ館内予選で勝っていたから。
このときは“マイケル”I君も含めて三つ巴戦をやりましたね。

しかし、今でも予選で覚えているのは、試合内容ではなく減量のきつさ。
その頃は減量のやり方をちゃんと知識として持っていなかったので、
その三つ巴戦のときは本当にきつかった。
サウナで水を抜いて体重を落として、計量後にすぐカツ丼を食べに行ったりして
(もちろん胃が受け付けない)、その1、2時間後に試合したときは、
足がフラフラで地に着かない感じのまま戦いました……。
減量でサウナというのは最悪だと、身をもって知りましたね。

そして迎えたスポ館代表vsソ連代表の対抗戦。
このときの試合映像はまだ持っているものの、まあ実にワタシの攻めは余裕で受け流されています(笑)。
当時の得意技だった袖釣り込みで1Pは奪ったものの、普通にポイント差で負けました。
その唯一の投げポイントも、受けてくれた感が否めないものでしたし。

日本代表との本番を控えたロシア人に余裕で受け流された私は軽くショックを受け、
当時の水商売のバイト先に「ロシア人に頭から投げ落とされて……」とか言って
嘘の理由で休もうとしたところ、怖い怖いバイトの先輩に怒られて出勤した……、
そんな下らない出来事こそ、20年経っても人生覚えているものです(笑)。

……とまあ、ここまで書いてみて、文体が前回までと違うことに気づきましたが、
そのときの気分で書いているので、あまり気にしないでください!

で、その秋、またサンボ全日本選手権が訪れます。

頑張って本来の57kg級に体重を落とし、年齢も上がったので
ジュニアからシニアの部になって臨んだわけですが……。

この全日本で、ある「事件」が試合前に起きます。

会場で、私はスポ館の後輩を見つけました。
坊主頭のF村(後に失踪・行方不明)が座っていたので、
後ろから「オイ!」と肩を叩いたところ……。

つづく。

2010年9月20日月曜日

「柔術、どれぐらいやってるんですか?」7

全日本準決勝の相手は、元木康年(自衛隊)。
後のレスリング五輪代表であり、ナショナルチームのコーチを務めることになる人間である。

結果から先に言うと、私はポイントで勝利した。
確か、片足タックルで2度ほど尻餅をつかせたと思う。
だとすると、2-0とか3-0ぐらいか。

元木選手からタックルを取れたのは、彼が柔道からレスリングに転向して間もない時期であり(これは後で人から聞いた話。対戦した時は純粋な柔道家だと思ってた)、しかも専門はグレコローマンだったからである。

この一戦は、割と覚えている。
序盤にポイントをリードした自分は、足立戦同様に守りに入った。
まともに組み合わず、タックルを仕掛けたり、跳びつきアキレスなどの飛び道具を掛けたり。

そんなこんなでブレイクでスタンドになったとき、苛立った元木選手は突然口走った。
「逃げんなよ!」
え……。
今のルールなら、試合中にそんなこと言ったら、どうなんだろう?

その後、流れの中でグラウンドになり、私は膝固めに入った。
相手はディフェンスを知らない。
取れる!
しかし、いきなりレフェリーにブレイクさせられた。
相手が防御しようと、爪先をつかむ反則を犯したからだ。
反則だからブレイクだなんて、こちらの攻め損だろう。
今のルールなら、どうなんだろう?

さらに、今度はスタンドで組み手争いのときに、元木選手の指が目に入ってしまった。
故意ではないと思うが、このサミングでしばし中断。
(おかけでしばらく目の中の赤い斑点が消えなかった)。

そんなこんなで、準決勝はちょっと因縁めいた試合となったが、しかし、自分は序盤のポイントを守り切って勝利した。

そして、決勝。
相手は国際武道大学柔道部、与那嶺選手。

試合は、まったくこちらの技は通じなかった。
得意の片足タックルも駄目だった。
ポイントで普通に負けてしまった。

試合後は、そのままトイレに駆け込み、号泣。
ただ、ただ、試合で何も出来なかった自分が情けなかった。
試合で負けて泣いたのは、これが最初で最後だったか。
いやあ、純粋だった(笑)。

私に勝った彼は、確かその年のサンボ国際大会でジュニアの部で入賞していたから、やはり実力差はそれなりにあったのだろう。

大会後の打ち上げがあって、スピーチの番が回ってきた私は、「大学に入ったら、柔道部とレスリング部に入って、次は優勝する!」なんてことをぶちまけた。
いやあ、若かった(笑)。

全日本が終わり、私はすぐ受験勉強に集中。
そして、法政大学経済学部に入学した。
憧れの大学生活で待ち受けていたものは……。
つづく。

2010年9月5日日曜日

「柔術、どれぐらいやってるんですか?」6

さて、週1更新目標といいつつ、1カ月以上更新の無かったこのブログ。
ようやく更新いたします。

2度目の全日本選手権は1988年、自分は浪人生、予備校生のときである。
このときジュニア(19歳以下)62kg級にエントリーしたというところまで、前回書いた。

自分は1回戦は試合が無く、2回戦から登場した。
相手は、足立弘成。
当時の彼は高校3年生である。その後の活躍については知る人も多いだろう。
ソ連にサンボ留学も果たし、本場の技術を習得。
シニアの部でも全日本王者となった。
格通のサンボ技術講座連載にも登場し、“怪物くん”萩原幸之助さんと共に“ヒットマン”のニックネームでも知られた。
最近では、中井祐樹さんも絶賛したあの『ロシアンパワー養成法』の著書として有名だ。

その足立君とは2回戦で対戦した。
しかし、内容はほとんど覚えていない。
両足か片足かのタックルで2回ぐらい倒したような気がする。
とすると、2-0、3-0ぐらいのポイントで勝利か。

しかし、彼はこの試合が非常に悔しかったようだ。
というのも、彼がやっていた昔のHPに、そのときの思いが載っていたのだ。
私(和良)は自分がポイントを取った後は、時には掛け逃げのようにしてうまく相手の攻めを凌いでポイントを守り切ったようだ。
「ようだ」と書いたのは、試合内容を覚えていないからだが、かろうじて覚えている準決勝もそんな感じだったので、恐らくそうなのだろう。
試合について、一本取るか取られるかのような武道的な感性を持っていた彼は、私の試合ぶりが腹立たしかったようだ。

実は、私は格闘技マスコミに入った90年代半ばから、再びサンボの練習を(ちょろっと)再開したり、サンボを仕事として取りあげるようになったりして、再び足立君とも関わりが出来た。
そんなとき、「また試合やりましょうよ」と彼に何度か言われたのだが、まさかそんな想いがあるとは想像だにしなかった(笑)。
ただの冗談にしか受け止められなかった。
それが1995、1996年ぐらいの話。

例えば、柔道だと分かりやすいかもしれない。日本の柔道が世界で勝てないとき、日本は一本を取る柔道だが、外国はポイントで勝つ柔道だから……というような説明がよくされる(この言論自体は間違いだが、本旨から外れるため深追いしません)。
しかし、私自身はサンボの勝負に関しては、「ポイントで勝つ競技」という以上の観念を持つことが無かった。
そのため、自分がポイントで優勢に立ったら、普通に守りに専念もした。
まあ、足立君自身も、そのHPに文章を書いた時点では、当時の自分の考えは間違っていたという感じで昔を振り返っていたわけであるが。

正直に言っておくと(言わなくても歴然としているが)、結局サンビストとしては、足立君のほうが遙かに高みに行った。
私のサンボの現役時代は足かけ4年程度だったが、彼のサンボに関する探究心はやむことがなかった。
『ロシアンパワー養成法』の内容を眺めれば、彼の達したレベルの高さは一目瞭然であるが、それ以前からも分かっていた。
田中康弘さんが教えていたカルチャーセンターでの指導で、私は大森教室があったときにアシスタントをしていたのだが、たまに顔を出していた足立君の技術には唸ることも多かった。

話を戻そう。
2回戦で足立君に勝利した後に迎えた準決勝。
相手は、元木康年(自衛隊)。
後のレスリング五輪代表であり、引退後はナショナルチームのコーチまでも務めた選手である。

続く。