2013年2月21日木曜日

あるサッカーライターの体罰論について

「迷っています。スポーツではなく武道だった柔道にも、完全なるスポーツの論理を持ち込んでいいものなのか?」
http://bylines.news.yahoo.co.jp/kanekotatsuhito/20130201-00023301/
金子達仁氏のコラムが話題を呼んでいるようです。
個人的にもいろいろ思うところがありました。


【そろそろ体罰問題から離れてオリンピックの招致活動について触れようと思っていたのですが、またしても大騒動が勃発してしまいました。柔道の問題です。ここまで騒ぎが大きくなってしまうと、触れないわけにはいかんでしょ。
改めて言うまでもないことですが、大前提として、わたしはスポーツに於ける体罰に反対です。ていうか、スポーツに罰を持ち込むという発想自体が間違っていると思ってもいます。
じゃ、なぜ反対なのか。
体罰くらってサッカーが、バスケットが、ゴルフがうまくなるとは思わないから──突き詰めると、この一点に尽きるわけです。】

→“短期的”には、体罰で競技が上手くなることはありえます。
それは柔道日本代表のようなトップアスリートにではなく、
もう少しレベルの低い中学高校の部活の話です。
ただ、それは生徒のモチベーションのマネジメントを「恐怖」において実行しただけで、
生徒の資質や環境にかなり委ねられ、効果はあっても限定的です。
本来は「殴らなくても強くなった」し、「殴っても強くなった」のが実態だと思います。


【では、うまくなるのなら体罰はあっていいのか。
わたしの答はイエス、です。
殴られることが、罵られることが、自分の技量であったりチーム力の向上に確実につながるというのであれば、どうぞ殴ってください、罵ってください。勝ちたくて、強くなりたくてどうしようもない自分にさらなる力を与えてくれるなら、ビンタだろうがグーだろうが言葉の暴力だろうが、どうぞどうぞ。メッシやコービー・ブライアントやタイガー・ウッズも過酷な体罰に耐えたからこそいまがあるっていうんなら、わたしは体罰を認めます。愛情なんかなくたっていい。うまくなれるなら。勝てるなら。ハハッ。
もちろん、殴られてうまくなったサッカー選手なんかいなかったし、これからもいるわけがない。なので、体罰はくだらん。無意味。卑怯。スポーツに体罰を持ち込む指導者には侮蔑を。そう主張してもきました。】

→上手くならないから体罰はくだらん。
でも、それは裏返しの、体罰を肯定する論理そのもの。
強くなっても、体罰は駄目なのです。


【ただ、ずっと迷ってたし、いまも迷ってることがあります。
もともとはスポーツではなく武道だった柔道にも、完全なるスポーツの論理を持ち込んでいいものなのか。】

→この問い自体は、興味深い問題設定です。
ただ、残念なことにこの議論は、この先深められていません。


【以前、亡くなった格闘家アンディ・フグの練習について書きました。殺人的で非科学的に見えた彼の練習は、しかし、本人に言わせると必要なこと、だったのです。なぜならば、空手とは痛みに耐える競技でもあるから──。スポーツのトレーニングに慣れた人間の目からすると、彼がやっているのは罰そのものでした。】

→何が「殺人的で非科学的」だったのでしょうか。
(以前書いたという記事も、具体的に何も書かれていませんでした)
そこがまず元格闘技記者としては、引っかかるところです。
門外漢のライターにとっては非科学的な練習に映ったということしか、
この文章からはわかりません。
事実として、それが「殺人的」な練習「量」だったとしても、
もちろんアンディにとって、強くなるには普通に「合理的」な練習メニューだったはずです。
間違った練習方法をいくら積み重ねても、アンディのような一流にはなれません。


【柔道は、痛みに耐えなくていいのでしょうか。
メッシやブライアントやウッズが人生において一度もコーチから体罰を食らったことがないのは確実ですが、過去に世界一になった日本の柔道家たちは、体罰を受けなかったのでしょうか。受けなかったから、世界一になれたのでしょうか(ちなみに、1月31日付の朝日新聞で、山下泰裕さんは「自分は指導者に恵まれたために体罰は受けなかった」といった内容のコメントをしています。意味深です)。
柔道がオリンピック競技になったのは、東京でのオリンピック開催を機に、競技の国際化を意識した柔道関係者がそれを強く望んだから、でもありました。つまり、柔道はスポーツであると方向づけたのは、ほかならぬ柔道関係者であったわけです。である以上、反スポーツ的な体罰は許されないというのが当然の流れ。それはわかる。よーくわかる。】

→柔道のスポーツ化への流れは、その端緒を東京五輪開催に求めるよりも、
敗戦後、GHQによる武道禁止を解除するために、
スポーツとしての姿を前面に打ち出していった経緯を論じるのが普通です。


【でも、そもそもは護身術であり武術だった競技を、欧米生まれのスポーツと同列に論じていいもんなんでしょうか。】

→はい、その問題設定自体はよいと思います。
なので、その先を。


【楽しいからやる。それがスポーツの根っこ。ずっと言い続けてきたことです。
柔道って、剣道って、空手って、初めてやってみる子供にとって楽しいことでしょうか。】

→楽しい子は、普通にいますよ。
道場に来てください。


【スポーツは勝つから楽しい。勝つことにムキになって、同じようにムキになってぶつかってくる相手を倒したらなお楽しい。勝利を目指す。それこそがスポーツをやる上でのモチベーションでありエネルギー。じゃあ、武道はどうなのか。勝利はもちろん大切ですが、それ以上に、試練に立ち向かう姿勢であったり、苦境を打開する気概のようなものが重要視されるのではないでしょうか。だから、子供にとっては楽しくなくても、親がやらせる。将来のために、やらせる。
柔道には受け身というものがあります。初心者はたいてい、これから始めます。サッカーとバスケットと草野球しかやったことのない人間からすると、これ、ちょっと不思議です。
だって、受け身って、要は負け方の訓練でしょ。いかに負けた際のダメージを少なくするか。すべてのエネルギーを勝つために、あるいは負けないために振り分けるのがスポーツの常識だとすると、これ、とんでもなくイレギュラーなトレーニングだと思うのです。】

→そこが、多くのスポーツと、スポーツの中でも「格闘技」に分類されるものを隔てるところなのです。
それが、議論の出発点だと思うのですがね。
サッカーでドリブルで抜かれても、パスを通されても、シュートを決められても、別に怪我はしません。
柔道で投げられて、受け身を取らなければ怪我をします。
単に勝負に負けるだけではなく、怪我をしたらその競技を当分楽しめませんよね。
また、逆に相手をそのつど怪我させても、練習が成り立ちませんよね。
なので、スポーツとしてとらえても、受け身の習得は不思議なことではないのです。


【同じ格闘技でも、欧米で生まれたものには「ガードの仕方」はあっても「ノックダウンの仕方」とか「フォールのされ方」なんてトレーニングはないわけですし。】

→ここは金子さん自身が「負け方」という言葉に引っ張られ混乱していますが
(あるいは意図的に話をズラしていますが)
受け身の話に戻すと、欧米で生まれたレスリングにも受け身はありますよ。


【誰だって、負けて楽しいわけがない。にもかかわらず、競技を始めた最初の段階でまず取り組むのが「負け方」。この時点で、柔道という武道にとって一番大切なのは勝利じゃないんですよっていうのが証明されてると思うのですが、にもかかわらず、柔道はスポーツの世界に入ることを望み、それが受け入れられてしまった。】

→受け身を学ぶことが、その競技にとって出発点ということで、
もちろん競技としては勝つためにプレイするものですから、
柔道がスポーツ競技であることとは別に矛盾はしません。


【日本の柔道は1本にこだわる、と言われます。】

→こまかなことですが(ライターさんなので求めますが)、ここは「一本」と表記してください。

【これだって、考えてみればまるでスポーツ的じゃない。「勝つためにどうするか」を考えるのがスポーツ的な思考だとすると、日本人の柔道に対する考え方は、いまもって「いかにして勝つか」という部分が色濃く残っています。目的と同じぐらい、時には目的よりも過程を重視する武道ならではの思考です。だから、スポーツ的な思考から編み出された、有効や効果でポイントを取ったらあとは逃げ回ってしまえ……というスタイルがどうもしっくりこない。一方で、自分たちの国が編み出した競技である以上、勝たなければいけないという思いもあって、これはもう、完全にスポーツ的な思考。つまりは、21世紀に入ってもなお、武道とスポーツの整理がつかず、ちゃんぽん状態のまま放置されてきたのが日本人にとっての柔道だと思います。】

→はい、この問題設定自体はよいのですが、その先を。

【先日、スポニチのコラムに「日本人はスポーツをやることによって理不尽さへの耐性を獲得しようとしている」と書きました。スポーツをやっていれば根性がつく。スポーツをやっていれば実社会にでても役に立つ。だから1年生は黙々とグラウンド整備をするし、野球部の少年たちは礼儀作法を徹底して仕込まれる。
なぜこうなったのか。日本に武道があったから、です。
騒動が発覚後、つるし上げに近い形での記者会見に出席した園田監督は、記者からの「(体罰をふるうという行為は)あなたが特殊だったのか。それとも柔道界では一般的なことだったのか」という問いに対し、「わたし以外の人間がやっているのを見たことがないので、わたしが特殊だったのでしょう」と答えました。
これって、理不尽さへの耐性がなければできない答、でしょ。】

→武道が礼儀作法を徹底して仕込まれるということと、
理不尽さへの耐性が結びつくというのは、認めたとしても。
ただし、理不尽さ=体罰ではありませんよね?
じつは体罰は理不尽どころか、当事者にとっては、きわめてわかりやすい論理ではありませんか?


【すべての罪を自分一人が引っ被り、回りに迷惑をかけまいとする。この発想が、欧米では圧倒的に少数派のはず。長く武道に親しんできた、日本人ならではの考え方。で、「いくらなんでも女性に手をあげるのはいかんだろ」と思いつつ、記者会見での潔さには胸を打たれてる自分がいたりもするわけです(書いてみて気づいたのですが、相手がオトコならばやむをえんかなという思いが自分の根っこにはあるようです)。
柔道だろうがなんだろうがおしなべて体罰はけしからん、という声が主流派になりつつあります。バスケットボールというスポーツで起きた、体罰に起因する自殺事件と、武道でもあった柔道で起きた騒動が、ほとんど同じ重さで語られています。柔道界自らがスポーツたらんと望んだ以上、仕方のないことだとはいえ、個人的には釈然としないものも残ります。
日本人が柔道を、あるいは武道を完全なスポーツとしてとらえるようになった時、理不尽さへの耐性はまだ残っているのでしょうか。そもそも、そんなもの、必要ないのでしょうか。】

→武道には体罰が必要という前提で書いていますが、それは本当でしょうか。
柔「術」を柔「道」としてまとめあげ、「精力善用」「自他共栄」を唱えた
嘉納治五郎の著作集のどこに体罰を肯定する文言があるのでしょうか。


【つるし上げの記者会見に出席する。自分だけが割を食うのは納得がいかんと、体罰をしていた仲間の名前を列挙する……このままの流れでいくと、そういう日本人が多数派となる時代になっていくのではないか。それで、いいのか。 迷ってます。】

→自分だけ罪を被らずに仲間の名前を挙げていく……
これは武道文化とスポーツ文化の話でしょうか?
そうは思えません。
さまざまなレベルの話を混同して「迷って」書いておられるようですが、
金子さまにおきましては、山口香先生が朝日新聞に語ったインタビュー記事や、
松原隆一郎先生と溝口紀子先生の対談(ゴング格闘技4月号)を
ご覧になることを強くおすすめします。